ZYYG
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ZIGGY」とは異なります。

ZYYG
出身地 日本
ジャンルビートロック[1]
活動期間

1993年 - 1999年

2006年2月11日

2019年 -

レーベルB-Gram RECORDS
事務所ZAIN ARTISTS
共同作業者生沢佑一コーラス
公式サイトZYYG Official Web Site

メンバー

高山征輝ボーカル

後藤康二ギター・コーラス)

加藤直樹ベース・コーラス)

藤本健一ドラムス


旧メンバー栗林誠一郎(ベース・キーボード・コーラス)

ZYYG(ジーグ)は、日本ロックバンド。所属事務所ZAIN ARTISTSレーベルB-Gram RECORDS。公式ファンクラブは「TROUBLE BEATS」[注釈 1]

1993年結成。メンバーチェンジと解散を経て、2019年に再結成[2]
概要

1993年にボーカル高山征輝と、出口雅之のソロユニットとなって活動する事になったREVに加入するのを辞退した初代ベース栗林誠一郎により結成。1994年ギター後藤康二ドラム藤本健一が加入し、栗林が脱退すると2代目ベース・加藤直樹が加入する。栗林脱退を契機として、サウンド面を含めて大きく変貌を遂げたことから、栗林在籍時を「第1期」、加藤加入以後を「第2期」と呼び表す習慣があり、B ZONEも公式に認めている[3][4]

なお、このバンド名もプロデューサー長戸大幸のアイデアによるものである[3][4]
メンバー

名前プロフィール担当在籍時期備考
第1期
[注釈 2]第2期[注釈 3]
高山征輝
(たかやま せいき) (1971-07-29) 1971年7月29日(52歳)
日本 福岡県久留米市ボーカル
作詞●●解散後は、BON-BON BLANCOのアルバム『BEAT GOES ON』の収録曲「LIVE」にて、作曲家デビュー。
2003年に本名の「三好裕」名義で、飯島拓也(Gt)と大場鷹(Dr)と「aiZia」を結成し、活動していた。
栗林誠一郎
(くりばやし せいいちろう) (1965-02-11) 1965年2月11日(59歳)
日本 東京都ベース
キーボード
コーラス
作曲編曲
後藤康二
(ごとう こうじ)12月18日
日本 兵庫県神戸市ギター
コーラス
作曲・編曲●[注釈 4]●高山と並ぶソングライターとして、バラードからパンキッシュなナンバーまで幅広く手掛ける。
解散後は、岸本早未竹井詩織里三枝夕夏 IN dbSKE48乃木坂46などの作曲・編曲を手掛けている。
また、「ck510」名義でソロ活動も行っている。
藤本健一
(ふじもと けんいち) (1974-03-31) 1974年3月31日(50歳)
日本 三重県鈴鹿市ドラム
編曲●[注釈 4]●パワフルかつテクニカルなドラミングで、加藤と共にZYYGのビートを支える。
解散後は、プログレッシブ・ロックの重鎮・GERARDに参加するなど、活動の幅を広げている。
加藤直樹
(かとう なおき)2月13日
日本 東京都ベース
コーラス
編曲●栗林脱退後のシークレットライブへの参加を経て、正式に加入。
松井常松と並ぶダウン・ピッキングの使い手である。

サポートメンバー

宇津本直紀(うづもと なおき)- ドラム[4]
第1期時の初期に参加。山口県出身。DEENの2代目ドラムとして1994年 - 1999年まで活動。DEEN脱退後もB ZONEに在籍(残留)し、プロデュース、ディレクション、作曲、ドラムレコーディングなどの音楽活動を行っていたが、現在は離脱している。

折居直喜(おりい なおき)- ギター[4]
第1期時の初期に参加。福岡県出身。後に元桜っ子クラブの北川裕子と「ラズベリー」というユニットを組み、1998年には2枚シングルを出している[5]
来歴

1993年5月、シングル『君が欲しくてたまらない』でデビュー。この頃はまだメンバーが正式に決まっておらず、サポートメンバーと共にレコーディングを行なっていた。

1994年4月、4thシングル『NO RETURN LOVE』リリース。このシングルで後藤康二藤本健一が正式に加入した。

同年7月、1stアルバム『GO-WILD』リリース。この後栗林誠一郎が脱退し、シークレットライブをきっかけに、加藤直樹ベーシストとして新たに加入した。このメンバーチェンジにより、バンドは一つの転機を迎え、バンドの立て直しを図り始める。

1995年6月、5thシングル『ぜったいに 誰も』リリース。前回のリリースから1年、模索していくうちに、サウンドもビジュアルも含めて行き着いたのが1980年代ビートロックの流れを汲むバンド感あるものであった。これは約1年振りのリリースとなる「ぜったいに 誰も」含め、1995年?1996年のリリース作品を見ると明確である。

同年11月、6thシングル『JULIA』リリース。派手めなメイクにソリッドなビートロックというわかりやすいコンセプトのもとに作られた。

1996年2月、2ndアルバム『Noizy Beat』リリース。「ぜったいに 誰も」から2ndアルバム『Noizy Beat』の間までで、ある種のビジュアルスタイルが確立された。この期間はメンバーそれぞれがアマチュア時代に影響を受けていたルーツをそのまま作品として表現していた様な、ビートロックという一種のアマチュアイズムがある。この頃の楽曲はZYYGの曲の中でも人気が高く、個性を打ち出すことができた作品となった。

同年3月?4月、アルバムリリース後、初のライブツアー「LIVE ROCKIN' HIGH Vol.01"Noizy Beat"」を開催し、これまで漠然としていたバンドとしての存在感が明らかになりつつあった。ライブではアルバム『Noizy Beat』の収録曲を中心に、高山が影響を受けたというバンド・ARBのカバー曲などが演奏された。またオフィシャルファンクラブ「TROUBLE BEATS」が発足した時期でもある。

同年7月、7thシングル『GYPSY DOLL/BLOOD ON BLOOD/微笑みだけをくれないか』リリース。


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