世界的には国家から軍用機の開発を受注した航空機メーカーが技術を蓄積し、それを旅客機に転用する例が多く、通産省も開発コストを下げて価格競争力を持たせて販売するビジネスモデルを構想していた。当時は運輸省でも民間輸送機の国内開発の助成案があり、通産省の国産機開発構想と行政の綱引きの対象となって権限争いが行われていた。閣議了承により、運輸省は耐空・型式証明までの管轄、通産省は製造証明と生産行政の管轄の、二重行政で決着した[1]。
国内線用の旅客機の本格研究は新明和工業(旧・川西航空機)で始まっていた。1956年(昭和31年)に運輸省が発表した「国内用中型機の安全性の確保に関する研究」の委託を受けて基礎研究を行い、後にYS-11の設計に参加する菊原静男、徳田晃一が中心となって進められた。この研究はDC-3の後継機種の仕様項目を研究するもので、レシプロエンジン双発の第一案(36席)、第二案(32席)、ターボプロップエンジン双発の第三案(52席)、第四案(53席)の設計案が提案され、最適とされた案は第三案とされ、その後のYS-11の叩き台となった[1]。
輸送機設計研究協会発足YS-11の設計のために東京大学航空学科で使用された風洞模型(国立科学博物館の展示)[2]
1956年(昭和31年)、通産省重工業局航空機武器課の赤澤璋一課長の主導で国産民間機計画が打ち出された[3]。通産省は各航空機メーカーと個別会談を行い、各社から賛同を得たことから、日本航空工業会に中型輸送機計画案を提出するように要請した。日本航空工業会がこの要請で開発案を提出したことから、通産省は中型輸送機計画開発の5カ年計画として、1957年(昭和32年)度予算で8,000万円を要求したが、第1次から第3次折衝まで予算請求が認められず、1957年(昭和32年)1月20日、水田三喜男通商産業大臣と池田勇人大蔵大臣の大臣交渉を経て、鉱工業技術研究補助金の名目で3,500万円の予算を獲得した[4]。
同年5月、理事長に新三菱重工副社長の荘田泰蔵が選任され、専任理事に木村秀政東京大学教授を迎えた「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が東京大学内に設立され、小型旅客輸送機の設計が始まった。輸研に参加したメーカーは新三菱重工業、川崎航空機、富士重工業(現・SUBARU)、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機の機体メーカーと、住友金属(現・住友精密工業)、島津製作所、日本電気、東京芝浦電気(現・東芝)、三菱電機、東京航空計器の部品メーカー各社であった。複数企業のジョイントとなった理由は、国内新型航空機開発と言う大型プロジェクトを、特定の企業一社に独占的に任せることで起こる他社の反発を懸念したためである[4]。
輸研には、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で一式戦闘機「隼」を設計した富士重工業の太田稔、先述の川西航空機で二式大艇や紫電改(及び紫電)を設計した新明和工業の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎重工業の土井武夫といった戦前の航空業界を支えた技術者が参加、設計に没頭した。航空業界ではこれに航研機の製作に携わった[5]木村秀政を加えて「五人のサムライ」と呼んだ。
設計案として、日本の国内線需要を勘案して1,200mの滑走路で運用できるもの、航続距離は500マイルから1,000マイル(800km-1,600km)、整備性から低翼、経済性から60席以上、双発ターボプロップエンジン、開発期間は4年、開発費用は30億円の基本設計で固まった。