1986年に設立したインディーズのレコード会社「エクスタシーレコード」は、LUNA SEAやGLAY、ZI:KILLなどを輩出し、ヴィジュアル系ムーブメントのパイオニアの1つとなった[9]。1993年からは他のアーティストのプロデュースも始め、これまでにNOA、GLAY、西城秀樹、北野井子、DIR EN GREY、工藤静香、ぽるん、松田聖子、SixTONESなどの作品を手がけている。
2000年に「日本社会と文化に貢献した人物」として文部大臣表彰を受けている。2010年に米国非営利公益法人501(c)(3)「Yoshiki Foundation America」を設立して国際的な人道支援に取り組み、経済誌『Forbes Asia』により2019年の「Heroes Of Philanthropy」(フィランソロピーの英雄たち)としてアジア太平洋地域の偉大な篤志家30人に選出された[10]。2021年には熱心なチャリティ活動が称えられて紺綬褒章を受章した[11]。
2014年のマディソン・スクエア・ガーデンにおけるX JAPANの公演、2017年のウェンブリー・アリーナにおけるX JAPANの公演、同年のカーネギー・ホールにおけるYOSHIKI単独公演により、彼はアジア人として初めて音楽の世界三大殿堂を踏破した[11]。このような業績により米メディア(Consequence)でYOSHIKIは「日本の歴史上最も影響力のある作曲家の1人」として見なされている[11]。「世界に通用する芸術を生み続けたい」彼の情熱がX JAPANを世界的な成功に導き[12]、彼は多年にわたり音楽の革新者として活動していることが知られている[13]。
YOSHIKIの持つ才能とは、世界中で100年聞かれる曲を作り出す力であり、彼の曲には心を打つメロディと美しい和声があり、それは作曲家の心の震えが直接伝わってくる彼独自の音楽なのであると、主張する者もいる[14]。 1965年11月20日に、千葉県館山市の老舗呉服店を営む家庭の2人兄弟の長男として生まれる[15]。父はジャズ・ピアノ、母は三味線、叔母は琴の演奏を嗜むなど音楽的な一面があった[16]。また、父は先代から家業を継ぐまでプロのタップ・ダンサーであった[16]。現在マネージメントを行っているのは[17]5歳年下の実弟[18]、光樹。 幼少期は仕事で忙しい両親に代わり、主に家政婦が兄弟の面倒を見ていた[19]。4歳になると父からピアノを買い与えられ[20]、自宅そばのピアノ教室でクラシック・ピアノのレッスンを受け始める[21]。この頃、幼稚園でのちにバンドを組むToshlと出会う。日頃から父が購入するクラシック音楽のレコードを好んで聴き[22]、8歳の時にシューベルトの交響曲第8番ロ短調「未完成」とベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調 が収録されたレコードを初めて自分の小遣いで購入した[21]。 病弱で重い小児喘息を患っていたために、小学校中学年になるまで頻繁に入退院を繰り返す生活を余儀なくされた[23]。病室では父が見舞いに持参した子供向けの偉人伝を愛読し、とりわけ若くして難聴となりながらも数々の名曲を残したベートーヴェンの苦難の人生に対して強い興味を抱いた[24]。 9歳頃からピアノで作曲をはじめ[21]、10歳から14歳まで学校のブラスバンド部でトランペットを担当した[21]。また中学から高校まではブラスバンド部と並行してサッカー部にも所属しており、チームの司令塔であるミッドフィールダーのポジションを担当していた[25][26][27]。毎年、誕生日には楽器を買い与えられることが恒例で、トランペットを始めたのも10歳の誕生日に父から買ってもらったことがきっかけだったが、その翌年の8月に父が自殺した[28](享年34[28])。それまではクラシック音楽しか聴いていなかったが[29]、行きつけのレコード店で偶然目にしたジャケットに惹かれて購入したキッスのシングル「ラヴ・ガン」[30][31]と、母に頼み連れていってもらったキッスの『ロックンロール・オーバー・ツアー』の日本武道館公演をきっかけにロックに魅了され、11歳でドラムスを始めた[21]。ちなみに、12歳でギターも始めたが、細かい作業が性に合わず早々に手を引いた[32]。 11歳で初めての4人組バンド「DYNAMITE」(メンバーは小学校の同級生2人と幼馴染みでギターが弾けたToshl)を結成。当初はドラムスとボーカルを担当し、近所の貸しスタジオでキッスの楽曲を練習して腕を磨いていたが[33]、声変わりが遅く高声しか出すことができなかった[33]ため、中学校に進学後、新たに同級生をボーカルに迎え、ドラムスに専念することとし、バンド名も「NOISE」に改称し[34]、レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなどの楽曲を演奏した[34]。 より複雑なリズムを叩くため、14歳の誕生日に母に頼んでダブル・ベースのドラムセットを購入してもらい[35]、同じくダブル・ベースを使うコージー・パウエルを手本にレインボーの曲「スターゲイザー」などをカバーし練習を積んだ[36][37]。中学校の体育館で開かれた予餞会で初めてのステージを踏み[38]、安房高校に進学[39]した後もNOISEとしてレッド・ツェッペリンやUFO、レインボーなどの楽曲を学校の文化祭などで演奏した[40]。 1982年の夏、大学受験に専念するメンバーが離脱したNOISEを解散。当時はアイアン・メイデンのアルバム『鋼鉄の処女』や『キラーズ』に感化されており、ボーカルに転向したToshlと他校の生徒によるツインリードギター編成で、よりハードなロックを指向したバンド「X」(現在のX JAPAN)を新たに結成する[41]。
経歴
生い立ち
音楽との関わり
X JAPANの結成詳細は「X JAPAN」を参照