YMO
[Wikipedia|▼Menu]
その後、チューブスが来日した時には、9月10 - 11日に中野サンプラザで、9月13 - 14日には郵便貯金ホールで前座を務めている。

同年9月25日、2枚目のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売[11](この時期、アメリカではリリース前にホライゾン・レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン・チャートの最高1位にランクインし、日本国内でのセールスはトータルで100万枚を越え、その名を幅広い世代に浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック・イメージとなる。また「デイ・トリッパー」「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」の2曲は海外でも評価が高く、名声を得た。なお、この2曲のみ鮎川誠シーナ&ザ・ロケッツ)がゲスト・ギタリストで参加している。
人気が国内へ逆輸入

10月には初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー (YELLOW MAGIC ORCHESTRA TRANS ATLANTIC TOUR)」をイギリスロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビラジオでも数多くのライヴ特番が組まれ、聴衆に対して媚を売ることなく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風のコスチュームなど、その独特なスタイルが注目を集めた。12月には帰国し、中野サンプラザにてライブを行った。凱旋公演となったライブでは、シーナ&ザ・ロケッツがオープニング・アクトを務めた。帰国する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に逆輸入された形となった。海外でのライブツアーは、その日本人アーティストのほとんどが国内でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは国内でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は国内よりも海外の方が人気になる」と予見してのことだった。この時期の大人気に伴い、デビュー以降無かった正式なマネジメント会社の設立が必要になり、ベルウッド・レコード出身の「大蔵博」(大蔵火呂死)によって音楽プロダクション会社「ヨロシタミュージック」が設立され、YMOは当該会社の所属になった。

こうしてYMOの日本国内での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、当時の小学生にまで広がっていった。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踊るなど、YMOの影響は社会現象にまでなった。

1980年3月からは初の国内ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。シングル「COMPUTER GAME (Theme From The Circus)」が、アメリカでリリースされ、3月15日付の全米シングルチャート(Billboard Hot 100)で60位を記録した[12]

4月には、小学館の雑誌「写楽」の創刊イベント「写楽祭」にシーナ&ザ・ロケッツスネークマンショーらと共に出演。

6月、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは当初10万枚の限定盤として売り出される予定であったが、20万枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン・チャート初登場1位を記録。イギリスで発売されたシングル「COMPUTER GAME (THEME FROM THE INVADERS)」が、6月8日付の全英シングルチャートで17位を記録した[13]

10月には第2回ワールド・ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス・オックスフォードのニュー・シアターから始まる。同ツアーは、8か国、19公演で行われ、アメリカロサンゼルスのザ・チャップリン・ステージ公演では、日本への衛星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル・トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。

YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ・バンド」と位置づけられることが多いが、当のメンバー達はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(1993年「再生」時の坂本の発言より)。「欧米で広く受け入れられた画期的なジャパニーズ・ユニット」という評価であるかどうかは、評論家および聴衆の間でも反応は様々である。
中期 : 『BGM』と『テクノデリック』

1981年はYMOにとって大きな転換期となる。3月に前衛的ともいえるアルバム『BGM』を発表。当時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチトラック・レコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまで耳に馴染みの良いポップ指向のスタイルから一転、“暗く重い”ヨーロッパ志向かつ、ニュー・ウェーヴ色の強いエレクトリックサウンドを展開した。歌詞もそれまでのクリス・モズデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター・バラカンとの共同作業)が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、また「U・T」が後に英国の『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌から「ハードコア・テクノの元祖」と称されるなど、国内だけでなく世界にも影響を与えたアルバムである。

音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大顰蹙を買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結果となった。このアルバムの発表に対し、メンバーは「何をやっても売れちゃう。こんな面白い状況は二度と来ない。だったら遊んじゃおうと思った」(細野)、「期待をはぐらかす快感を味わいたかった」(坂本)、「ファンの切り捨てをしました」(高橋)と、それぞれ発言している。

同年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。当時としては最先端のサンプリング・マシーンを駆使し、金属音や人間の声などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を与えることになった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:235 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef