この項目では、金属メーカーについて説明しています。その他の用法については「YKK (曖昧さ回避)」をご覧ください。
YKK株式会社
YKK Corporation
種類株式会社
市場情報非上場(株主コミュニティを組成)
本社所在地 日本
〒101-8642
東京都千代田区神田和泉町1番地
YKK80ビル
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分57.0秒 東経139度46分33.4秒 / 北緯35.699167度 東経139.775944度 / 35.699167; 139.775944
YKK株式会社(ワイケイケイ、英: YKK Corporation)は、日本の非鉄金属メーカーである。
東京都千代田区に本社を置く。 吉田忠雄が1934年1月にサンエス商会として創業し、1942年に有限会社吉田工業所、1945年に吉田工業株式会社と改名した。1946年からは「YKK」を商標として使用し、1994年に現在のYKK株式会社に社名変更した。世界最大のファスナーメーカーとして知られており、その世界シェアは45%である[2]。建材会社のYKK APを子会社に持つ。 スライドファスナーの生産が有名で、世界シェアの約45%を占める。 社名の由来は旧社名である「吉田工業株式会社(Yoshida Kogyo Kabushikigaisha)」の略称で、Yは創業者の吉田忠雄(富山県魚津市出身)の苗字からきている。 YKKグループの本社機能、およびファスニング事業(Fastening Products)・建材事業(Architectural Products)・工機(Machinery Engineering)の3部門によるグローバル事業経営と世界6極による地域経営を基本としている。富山県黒部市に大規模な生産拠点を置き、世界70カ国/地域122社に拠点を持つ。 同社は、このチェーンマシンと同種の機械を100台、日立精機に1台12万円、支払いは30台ずつの条件で発注。発注した機械は、1951年(昭和26年)5月に10台、8月に20台、1953年(昭和28年)の7月に100台目が納入された。つまり、アメリカから輸入した4台と日本でコピーした100台は、それぞれ同じ1200万円であった。コピーするのは当然の流れであったといえる。 当初は鉄道の便が良く。工場用地が25万坪(825,000m2)ある魚津市を新工場建設の候補としていたが、交渉が捗らない内に、先に黒部市が生地にある10万坪の土地を提供するという申し出があったため、生地の吉田に工場を建設することになった[20]。
概要
沿革
1934年(昭和9年)1月1日 - 吉田忠雄が、東京府東京市日本橋区(現・東京都中央区東日本橋)にサンエス商会を設立し、ファスナーの加工・販売を開始[3]。
1938年(昭和13年)2月 - 東京府東京市(現・東京都)江戸川区小松川に工場敷地121坪を購入し工場85坪を新築、「吉田工業所と改称[4]。
1942年(昭和17年)2月 - 有限会社吉田工業所に改称[5]。
1945年(昭和20年)
3月9日 - 東京大空襲により小松川工場が焼失、吉田工業所は解散となる[6]。
6月26日 - 現在の富山県魚津町(現・魚津市)上村木786番地に所在していた株式会社魚津鉄工所を買収[7]。
8月 - 商号を株式会社魚津鉄工所から「吉田工業株式会社」に変更。ファスナーテープを作るための焼けミシンの修理から始まった[8]。
11月3日 - 戦後第1号のファスナーが完成[8][9]。
1946年(昭和21年)4月 - 約200m2の工場を増設[9]。
1948年(昭和23年)
4月 - 商標を「YKK」とする[10]。
6月 - 魚津木工所株式会社を買収[10]。
1949年(昭和24年)11月27日 - 伸銅工場(旧・魚津木工所)が原因不明の火災により焼失[11]。
1950年(昭和25年)
3月 - 伸銅工場復旧[12]。
7月 - 自動植付機(チェーンマシン)をアメリカ・イージー社から4台のみ輸入。輸入のために日本興業銀行から1200万円を借り入れた(同銀行融資による輸入第1号となる)[13]。
9月 - 東京都墨田区亀沢町3丁目の土地1,760坪、建坪1,100坪を買収[14]。
1951年(昭和26年)3月 - 本社を東京都中央区日本橋馬喰町の東京営業所に移転[15]。
1954年(昭和29年)10月 - 富山県黒部市の黒部工場が着工[16]。
1955年(昭和30年)5月 - 黒部工場が、圧延伸線工場完成を皮切りに順次稼働[16]。
1956年(昭和31年)
9月 - 魚津大火により上村木工場焼失[17]。
12月 - 経理関係を本江工場から黒部工場に移転[18]。
1957年(昭和32年)
6月 - 本江工場から全事務部門を黒部工場に移転[18]。
10月 - 富山県黒部市の生地工場(現・黒部工場)の鍬入式を行う[19]。