X級潜水艦
基本情報
艦種小型潜水艦
運用者 イギリス海軍
前級?
次級XE級潜水艦
X艇(えっくすてい, 英: X-craft)とは、イギリス海軍が1942年から44年にかけて建造、使用した小型潜水艦である。艦級としてはX級潜水艦(えっくすきゅうせんすいかん、英: X class submarine)とも呼称される。 X級潜水艦は、作戦海域まで回航担当の乗組員の操縦のもと「母艦」となる通常サイズの潜水艦(普通T級やS級の潜水艦が用いられた)に曳航された。作戦海域に到着すると、回航担当の乗組員はゴムボートで曳航用潜水艦に戻り、代わって作戦担当の乗組員がX艇に乗り込んだ。作戦実施後、X艇は曳航用潜水艦と再会合し、港まで帰還することとなっていた。 X艇の航続距離は乗組員の忍耐と敢闘精神にかかっていたが、適切な訓練を受けた乗組員ならば、航続距離2,400km(1,500マイル)ないしは航続時間14日を達成できるとされていた。しかし、実用的な航続距離は水上航行で926km(500海里)、水中航行で152km(82海里・2ノット/時)であった。 X艇の全長は約15.5m(51フィート)、全幅は約1.68m(5.5フィート)で、水上排水量は27トン、水中排水量は30トンである。機関として、水上用にはロンドンを走るバスで使われるのと同タイプのガードナー・4気筒ディーゼルエンジン(42馬力)を、水中用に30馬力のモーターを搭載し、水上で最大6.5ノット、水中で最大5.5ノットを発揮した。乗組員は当初、艇長、操縦担当士官、機関特務士官(Engine Room Artificer)の3名であったが、後に船体に艇と水中を出入りする区画が追加されフロッグマン1名が増員された。 X艇は、武装として船体の両舷にアマトール爆薬を充填した2トンの爆発物を装備しており、これを標的直下の海域に設置して目標を攻撃した(X艇は設置後、爆発前に脱出する)。爆発物の信管は時限信管だった。 X艇の実用性が浸透する前に、ある程度まとまった数の試作型のX艇が建造された。最初の作戦可能なX艇はX-3(艦番号HMS X3あるいはHM S/M X.3)で、1942年3月15日の夜に起工され、同年9月に訓練を開始、10月にはX4がこれに加わった。さらに12月から翌年(1943年)1月にかけて、外形的には同型だが内部を一新した5号艇型の6隻がこれに加わった(X5?10号)。 この作戦は唯一の複数のX艇が同時に参加した作戦だった。損失艇は1944年中に建造されたX20-X25と6隻の練習用艇によって補充された。 1944年4月15日、X24がベルゲン近郊のラクセバグ
運用
構造
作戦
X艇はノルマンディー上陸作戦のための事前準備にも参加している。上陸海岸を偵察するポステージ・エイブル作戦では、X20が4日間にわたってフランス沿岸部を偵察した。日中は潜望鏡による海岸線の偵察と、ソナーによる水中偵察を行った。X20は毎夜海岸まで近づき、2名のフロッグマンを海岸線に送り出した。彼らによって海岸の土のサンプルがコンドームに詰め込まれた。フロッグマンたちは2夜にわたり、後にアメリカ軍の上陸地点オマハ・ビーチとなった、ヴィエルヴィル=シュル=メール、ムーラン=セントローレント、コレヴィル=シュル=メール付近を調査した。3夜目には後に上陸地点ソード・ビーチとなるオルヌ川三角江海岸部に向かうこととなっていたが、この時点で乗組員の疲弊がひどく(乗組員とフロッグマンはほとんどベンゼドリンで生き延びているようなものだった)、天候も悪化していたため、艇長のケン・ハズペスは作戦を切り上げ、1944年1月21日にHMS Dolphin[1]に帰投した。ハズペスはこの作戦による功績で殊勲賞(en)を受勲した。なお、X20とX23はDデイ当日、“Pilotage Party”[2]作戦の一環として、上陸艦隊を正しい海岸に誘導するための誘導艦の役割を果たした(ギャンビット作戦)。
X級を改良したXE級で行われた極東での作戦行動については、XE級潜水艦を参照のこと。
X艇とその乗員の戦歴
X3?1942年11月4日、ストリベン湖にてエンジンバルブからの浸水により沈没。乗員は脱出装置によって脱出した[3]。
X5 ? 非公式に「Platypus(カモノハシ)」とのニックネームを持っていた[4]。艇長はヘンティークレア大尉(イギリス海軍志願予備員)で、彼は作戦の指揮にも当たった[5]。このほかネルソン中尉、マルコム少尉候補生、モーティボーイズ機関特務士官が搭乗した。回航担当の乗組員はテリー・ロイド大尉を艇長に、エレメント一等兵、ギャリティー機関兵であった[6]。ティルピッツへの攻撃に参加したヘンティークレア大尉以下4名全員が戦死したため、X-5の最期の状況は不明である[6]。
X6 ? 「Piker II」(訳注:怠け者2号、というほどの意か)と名づけられる[5]。