Wink
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^ 鈴木早智子は、前事務所(アップライトミュージック)が社名変更したものとしており[2]、Winkの活動停止後に社名変更したともする[3]マンリープロモーション[4]
^ この記事がWinkの活動停止発表の場であったことについては、鈴木 2010, p.155。
^ 鈴木が1987年「上半期」、相田が「下半期」のグランプリとされることがあるが[9]、鈴木が1987年上半期中に発行の『UP TO BOY』の一つで公表されたグランプリ、相田が下半期中のそれという意味なら誤りではないものの、誤解を招く表現である。なお、1987年の『UP TO BOY』で公表されたミス・アップ・グランプリは、1月号・第5代島田りか子、3月号・第6代真弓倫子、5月号・第7代鈴木早智子、7月号・第8代北野美佐緒(後の森川美沙緒)、11月号・第9代相田翔子の5人。
^明星』1990年7月号p.25に掲載される鈴木早智子の独白によると、「花束っていうと、デビューの日を思い出します。88年4月27日。私たちはオフで、それぞれ自宅にいたら、事務所からデビュー記念の花束が届いたんです」とのことで、「Sugar Baby Love」の発売日1988年4月27日が「デビューの日」である。なお、このデビュー曲は、1988年4月14日(木)に放送開始した『熱っぽいの!』(フジテレビ系)の主題歌として用いられたので、このドラマを通してWinkの「デビュー」前に公表されたことになる。
^ アップライトミュージック社長(1989年当時)森裕平の証言として以下のようにある。「グループ名には、およそ20の候補があった。ベルズ、カルガリー、トゥインクル…。最終的にはWINK≠ニOZ≠ノ絞られた。「カルガリーというのは、当時、ちょうどオリンピックの時期だったからね(笑)。Winkに決まった、ほとんどひらめきだね。響きがよくて、言いやすくて、覚えやすいことが条件だった」(アップライトミュージック・森氏)」。
^ 鈴木早智子の証言として以下のようにある。
「最初はいろいろな候補が挙がりました。
『oz(オズ)』
二人ともうお座だから、ということで『フィッシュズ』。
こんなベタな名前もありました。
『早智子と翔子』
しかし、どれもいまいちピンとこなかったのです。そのときでした。
「『Wink(ウィンク)』っていうのは、どう?」
事務所にいたマネージャーがひとこと言ったのです。「それ、いいね」
偶然、マネージャーが言ったひとことが私たちの名前を決めたのでした。」
^ 1980年代中盤までのアイドルブームの反動として消費者の間で可愛らしさを追求するアイドルが飽きられ、逆の方向性として格好良さを追求するアーティスト人気が高まったことで、アイドルを巡る環境が急激に悪化した状況を指す。特に「身近な女の子」というアイドル像を提示し、絶大な人気を獲得したおニャン子クラブの解散や、その後の音楽番組の激減などを契機としてアイドル界が冬の時代に突入したとの意見がある。
^ ここでの年間売り上げは1988年12月5日から1989年11月27日のもの。
^読売新聞』1989年7月8日朝刊第32面(『読売新聞縮刷版』1989年7月号p.404)および夕刊第16面(同前p.428)のテレビ番組表に番組放送予定記載あり。
^ 上半期グランプリ受賞は「情熱つたわれWINK」(『ザテレビジョン』1989年第31号)p.33(各地方版共通)などに言及あり。
^ 『読売新聞縮刷版』1989年12月14日朝・夕刊TV番組表に放送予定あり。年間グランプリ受賞は『スコラ』1990年5月10日号p.174などに言及あり。
^ 船山基紀が腕を振るったユーロビート調のアレンジが功を奏したものという見方もある[17]
^ 『80年代アイドルcollection』pp.38-39の「80年代シングルランキングTOP50」では、1980年代におけるWinkのシングル総売上げは、年間ベスト50位以内のものに限れば191.3万枚、同書が認定した「80年代アイドル」中8位、年間ベスト50位以内ランクイン曲数は4曲、同じく「80年代アイドル」中8位とする。同様に1980年代において、「80年代アイドル」のシングルチャート最高位の座は1989年の1回としている。なお、同書における「80年代アイドル」の定義は、記載が無いため不明であるが、全員女性であり、また、1988年に星野裕子としてデビューして1990年の改名後にブレイクした、かとうれいこが「80年代アイドル」に含まれている。
^ 『80年代アイドルcollection』p.51に、出典や具体的な出演作品の例示が無いながら、言及がある。なお、本『Wikipedia』に立項されている「鈴木早智子」と「相田翔子」も参照。
^ 2017年における動向として、「相田翔子、Wink30周年目に感謝つづる 「近々また会う約束」は活動再開フラグ?」(『ねとらぼエンタ』2017年4月27日)(2017年5月4日閲覧)参照。
^ メディア等ではしばしば「”元”Winkの鈴木早智子(または相田翔子)」のように記載される[21]
^ 『読売新聞縮刷版』1998年12月29日(火)朝・夕刊TV番組表に放送・出演予定記載あり。
^ 『読売新聞縮刷版』1999年12月30日(木)朝・夕刊TV番組表に放送・出演予定記載あり。
^ 収録日は2018年8月4日[24][25]
^ 1991年頃まで[要出典]。その後、三浦亨による振付となる[要出典]。
^ ここでの年月日は『はた金のオリコン・ザ・ビッグヒット』における公表日。『読売新聞縮刷版』1989年7月8日(土)朝刊ラジオ・FM番組表の同番組の欄に、「ウィンクイメージソング大発表」とある。
^ 曲名の表記は『Twinkle Angels』(ワニブックス、1990年4月10日)p.171の記載に従っている。
^ 同資料には、「谷穂ちろる(作詞)+渡辺英樹野村義男(作曲)+WINK(歌)=つまり“THE KING C-LOVE FAMILY”」とある。1989年4月1日(土)放送の『はた金のオリコン・ザ・ビッグヒット』におけるパーソナリティ・波多江孝文(はた金)の発言によれば、バンド名は「ザ・キング・クラブ・ファミリー」と読み、同名中の「キング」は「はた金」の「金」に由来する。
^ザテレビジョン 首都圏版』1989年第22号の番組表p.72に番組放送・出演予定記載、同「TV番組解説」p.75に紹介記事あり。
^ 「NEWすたーれぽーと」(『ザテレビジョン』1991年第26号)p.53(各地方版共通)に番組放送・出演予定記載あり。
^ 『Twinkle Angels』 1990, p.170に紹介記事あり。
^ 『ザテレビジョン』の1989年より1992年の各号における「NEWすたーれぽーと」(各地方版共通)に、1990年2月7日、4月18日、6月9日、7月25日、10月24日、11月21日、1991年1月16日、2月6日、4月10日、4月17日、6月12日、6月26日、8月21日、および1991年8月25日(日)(関西圏では9月1日(日))のスペシャル番組『やまかつIN武道館』の番組放送・出演予定記載あり。
^ a b 「年末年始ビッグスター50」(『ザテレビジョン』1990年第1号)p.94(各地方版共通)に番組放送・出演予定記載あり。
^ 「NEWすたーれぽーと」(『ザテレビジョン』1990年第20号)p.37(各地方版共通)に番組放送・出演予定記載あり。
^ 放送開始:1989年4月1日[36]、撮影:1989年3月1日、企画制作会社:I&Sティー・ワイ・オー、演出:北川みつを、音楽:Wink「Remember Sweet」[37]
^ 撮影:1990年2月[38]
^ 放送開始:1989年4月1日[36]、撮影:1989年3月2日、企画制作会社:旭通信社(現・ADKホールディングス)・葵プロモーション、演出:鈴木拓彦、音楽:Wink「Remember Sweet」[39]
^ 放送開始:1989年9月23日(北海道のみ8月28日)[40]、撮影:1989年7月20日、企画制作会社:I&S・アダルト、演出:小野寺龍敏、音楽:Wink「Shining Star」[37]
^ 放送開始:1989年9月23日(北海道のみ8月28日)[40]、撮影:1989年7月30日、企画制作会社:I&S・マザース、演出:湯浅宣之、音楽:Wink「チョコレートは明治」テーマソング[37]
^ 撮影:1990年2月[38]
^ 放送開始:1989年4月中旬[36]、撮影:1989年4月8日、企画制作会社:電通電通プロックス、演出:木村草一、音楽:Wink「淋しい熱帯魚」[41]
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