Wikipedia:なぜウィキペディアは素晴らしくないのか
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この文書は私論です。一部のウィキペディアンが助言や意見を記したものです。広く共有されている考え方もあれば、少数意見の見解もあります。内容の是非については慎重に検討してください。

ウィキペディアは素晴らしいものではないという意見があります。その指摘の一部をここで紹介します。「ウィキペディアへの批判」も参照
記事の品質「Wikipedia:免責事項」および「ウィキアリティ」も参照

検索エンジンによる検索結果のトップにウィキペディアの内容が表示されることがしばしばあります(検索エンジン最適化)。しかしその内容は、知識やモラルのない者も含め「誰でも編集に関われる」、つまりウィキであるということの裏返しで、残念ながら、常に信頼に足るものであるとは限りません[注 1](内容が間違っているかもしれない・最悪の場合は嘘が混ざっているかもしれない百科事典というのは考えられない存在です。また記事の品質を高めるためには、記事が正しく、出典も正しい記事をリバートするなどの荒らし行為の実行者は、永久追放などの厳罰が必要だが、運営側はその必要性をまったく理解していないことがあげられます。Wikipedia:ビコリム戦争という実例があったように)。むしろ、公式ウェブサイト学者ブログ・研究成果、また報道各社のニュースサイトを見る方がましだったりします[注 2]
記事の正確性「Wikipedia:出典を明記する」および「Wikipedia:中立的な観点」も参照

ウィキをはじめとする電子出版の利用には、いくらかの匿名性がついてまわります。そのため事実無根の情報を記事にする自分勝手な編集者は少なくありません。出典が明示されていない情報や引用にいたっては、その真偽の程を検証することさえ困難となります。また、出典が記されてあったとしても、そのリンク先が定期的に更新されたり(マスメディアニュース記事がその典型です)、いつ無くなるかわからないようなウェブページだったり、匿名の人物が自分の主張に都合のよい事実だけを取り出したそれ(チェリー・ピッキング)、また非一般的な情報源だったりする場合には、真偽の検証は同様に難しくなります。一般にウィキペディアでは、書籍の情報よりインターネットのウェブページやブログに上がった文章の方が出典として受け入れられやすいようです(Wikipedia:検証可能性。ただしこれは、典拠とする文章がそこに存在するという事実があるだけで、報道機関のもの以外に関しては、その内容が真実であるとは限りません)。

ウィキペディアへの投稿はごく自由なものです。そのため、出版社などに受け入れられない意見や思想を抱える人達は、往々にしてウィキペディアでの執筆機会を得ようとします。結果、従来の世論や常識としては考えられないような疑似科学に属する珍説、または不確実な情報からなる記事、果ては陰謀論までが乱立する可能性があります。

これら信用できない情報は、改善されるよりもむしろ増殖していきがちです。ひとたび熱に浮かされたような記事が投稿されるやいなや、これに追随する形で別の偏執的投稿が加わってゆく、というのはよくあることです。顔が出ないという匿名環境では、誰もがそのように身勝手な振る舞いに誘われてもおかしくはないのです。

しかしながら、匿名によってこそ明かせる正確な事実情報を人々が密かに所持しているという現実、ある人にとっては周知の事実であっても別の人は寡聞にして知らない物事もまたあります。つまり、匿名性そのものが問題の原因ではないのです。大切なのは、利用者全員によって記事が中立的に観察され管理されるという状況を守ることです。それを実現するための仕組を、ウィキペディアは既に提供しています。たとえば出典が明示されていない引用を含む記事があれば、そのことを警告するための専用札をテンプレートから持ってきて、そこに貼り付けることができます。つまり、記事が不正確であるということでウィキペディアが非難される時、それは虚偽の記事を書く者を排除するためのウィキペディアのルールが未熟であり、参加者達自身の協力の不備と、多くの妨害行為が問題となっているのです。

結局のところ、あることを調べるためのとっかかりにウィキペディアを使うのは有効な使い方ですが、無闇に全部を信じてしまうのは危険です。ウィキペディアだけでなく、ほかの事典や書物にもあたるほうがより正確な情報を得られます。特に、更新頻度の低いページ保護されたページは信頼性に欠ける場合があります。あるいは、百科事典ではなく、匿名の不特定多数によって書かれたエッセイ的読み物として扱うのもいいかもしれません[注 1]
記事の完成度

基本的なことが書かれていない記事が多数あり、逆に“記事にすべきなのか”と首を傾げたくなるような事象・人物の項も存在します(多数の関心を呼ぶ事象ないし人物でない限り、どんなに重要なことであろうが、誰かが書くまで記事にならないのです。一方で、何を項目として作成するかも完全に個々人に任されるという自由主義〈liberalではなくlicense。放縦・放埓の方がより近い。〉です。ウィキペディアは2001年に無の状態から始まりました。)。また、たとえ書き加えてもなぜか削除されることもあります[1]。その記事を書いた人やその道の専門家には記述するまでもない周知の事実でも、門外漢には何のことか分からない語句が使用されている記事さえあります(しかもその語句には項目へのリンクがなく、さらには解説さえないこともあります。例えば法学士と経済学士とでは編集出来る専門分野がまるで違います)。

ウィキペディアでは、他人の書いた文章をできるだけ削除しないという方針(包摂主義)が非常に強いので、記事の内容は良くなる前に長くなります。誰かが記事をうまく再構成しようと思っても、微妙に間違っている記述や誤解を含んだ記述などを消さないことには、短くできません(全ての利用者に読んでほしいこのページだって、どんどん長くなっていき、いまや最後まで読むのは暇な人だけです)。

一つの記事に集中的に新たな情報を加えることなく、関連する小さな事柄をわざわざ別な記事として立て、記事同士の連結(リンク)ばかりを増設する人がいます。そのような編集はかならずしも実りを伴う建設的なものではありません。ウィキペディアの読者が望んでいるのは、特定の項目についてよく学ぶことであって、連結によってあちらこちらへと振り回されてしまうことではありません。

たくさんの記事があることは認めますが、効果的にリンクされていないものがしばしば見受けられます。異なった観点ごとに、記事間のリンクで閉じた空間をつくってしまいがちです。こういうときには、言語間リンクや比較の観点がおろそかになりがちです。この問題は、独自の用語を用いている特定の集団などで更に顕著になります。さらに、多くの記事が書きかけのまま放置されています(その数は誰にも分かりません。ちなみに、完成している記事の数、また書きかけの記事と完成した記事の違いも不明です)。

内容が刻一刻と変わっていく性質上、ウィキペディアは参考文献に挙げにくいという面があります[注 3]。参考文献を挙げる時に第何版かを書くのは、誰もがその人が参照したものと同じものを探すために非常に重要です。これをウィキペディアでやろうとすると、ある特定の版へのリンクを示さないといけないことになります。誰かがウィキペディアを参考文献に挙げても、これがないと後でそれを参照した人はみな異なったバージョンの記事を読むことになり、完全に混乱が起こります。

ウィキペディア日本語版においては、単に英語版からの「ダイジェスト」として直訳の文章からなる記事が多く見かけられますし、この状況はコンテンツ翻訳ツール(インターフェースに組み込まれた機械翻訳)の導入によってさらに悪化しています。新規記事ならまだしも、それなりに完成度の高い記事が長々とした低質な翻訳に置き換えられてしまったケースもあります。そして機械翻訳に限らず誤訳もたくさんあります[注 4]

また、日本語版にしか存在しない記事もあります(後述「関心の偏在」)。記事の完成度はかならずしも文章の量によって満たされるものではありません。当の言語体系に即してどれだけ明確な解説が図られているかが重要な基準となります[注 5]
中立的な観点「Wikipedia:中立的な観点」も参照

万人にとって万全に正しい言説が存在しないというのは、かねてから論じられてきたことです。万人に対して平等な文章が存在し得ない以上、ウィキペディアの「中立的な観点」という方針の成功は自明のものではありません。Aさんによって書かれた文は、批判的に改稿するBさんが現れるまでは、Aさんの観点に偏ったままです。

政治・思想・イデオロギーに関する記事は特に中立的に記述されることが望ましいのですが、実際には討論番組の司会者にまとめられるような形、つまり両論併記で仕上がってしまいます。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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