WAR(闘)
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『WAR(闘)』
U2スタジオ・アルバム
リリース1983年2月28日
録音ウィンドミルレーン・スタジオ,ダブリン,1982年
ジャンルロック
時間43分38秒
レーベルアイランド・レコード
プロデューススティーヴ・リリーホワイト
専門評論家によるレビュー


Allmusic link

Rolling Stone link

チャート最高順位

全英1位

全米12位

ゴールドディスク
UK2×プラチナ、US4×プラチナ、カナダ3×プラチナ、ドイツ・ゴールド、 フランス2×プラチナ、 オランダ・ゴールド、 ベルギー・プラチナ、 スイス・ゴールド、 ブラジル・ゴールド
U2 アルバム 年表

アイリッシュ・オクトーバー
(1981年)WAR
(1983年)ブラッド・レッド・スカイ=四騎=
(1983年)

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『WAR(闘)』(ウォー、WAR)は、アイルランドロックバンド、U2のサードアルバムである。
概要

全英チャート初登場1位獲得など、U2として初のビッグヒットを記録。シングルでもヒットした「Sunday Bloody Sunday」や「New Year's Day」など、初期のU2を代表する楽曲が収録されている。

「同じアーチストでアルバムは1枚しか作らない」という当時のポリシーを曲げてOctoberのプロデューサーを務めてくれたリリーホワイトだが、今度こそは断ったので、メンバーは新しいプロデューサー探しに奔走。まず1981年の11月22日から24日までアメリカのハードロックバンド・Blue Oyster CultThe Clashの『Give 'Em Enough Rope』(1978)を手掛けたサンディ・パールマンをプロデューサーに迎えて、アメリカのニューヨーク州ロングアイランドにあるKingdom Soundというスタジオでセッションを行った。この時作った曲はみな3分間くらいのロカビリー調の曲だったらしい。

その後、バンドはリリーホワイトに再登板を願って1982年2月にロンドンのBasing Street Studiosで「A Celebration」と 「Trash, Trampoline and the Party Girl」をレコーディングしたが、それでもなおリリーホワイトは次のアルバムのプロデュースは拒否した(この2曲はサンディ・パールマンとのセッションで作った曲らしい)。

1982年3月、今度はBlondieを手掛けたことで知られるジミー・デストリとセッションを行った。そのセッションではピアノが多用され、「Be There」「Endless Deep」と「The Unforgettable Fire」の原型が出来上がったと言われているが、この点については不明な点が多い(ジミー・デストリは「Being There」という曲を作ったと述べている)。

バンドは曲の出来に満足せず、その後、ブライアン・イーノと一緒に仕事をしたことがあるチェット・デイヴィースやブライアン・イーノ本人にも声をかけたが、結局、後にリバーダンスの仕掛け人として有名になるビル・ウィーランをプロデューサーに迎えて1982年8月にセッションを行って2曲レコーディングした。そのうち1曲は最終的に『War』に収録された「The Refugee」で、これがニューアルバムからのリードシングルになるとアナウンスされたが、これもしっくり来ず、ボノとアリのハネムーンを挟んで、リリーホワイトを三顧の礼をもって迎え、改めてアルバムのレコーディングに入った。

ボノ曰く「戦争は1982年のテーマに思えた。見渡せばフォークランドから中東、南アフリカまで戦争ばかりだ」ということで、北アイルランド紛争で起きた1972年の血の日曜日事件の悲劇をテーマにした「Sunday Bloody Sunday」、核戦争を扱った「Seconds」、ポーランドの「連帯」をイメージした「New Year's Day」などのメッセージソングが収録され、「社会・政治問題に積極的に関わるロックバンド」という今日まで続くU2のイメージを決定付けた。

タイトルの『WAR(闘)』についてボノは「『WAR』とは色々なレベルにある『戦い』を扱ったものなんだ。国と国の戦いもあれば、市民権の戦いもある。人と人同士の戦いもあるんだ。勿論、男女間の戦いもね。確かに『戦い』がテーマだけど、決して否定的なアルバムなんかじゃないんだよ」と繰り返し述べている。War Tourのライブで「Sunday Bloody Sunday」を歌う際には「これは抵抗の歌ではない」と語り、ステージ上で白い旗を振るパフォーマンスを見せた。そして緊迫感みなぎるアルバム前半から一転して、ラスト曲の「40」では穏やかな平和への祈りを聴くことができる(曲名は旧約聖書詩篇40篇より)。この曲では通常とは逆に、ジ・エッジがベース、アダム・クレイトンがギターを弾いている。ジ・エッジは「Seconds」の一部でリードボーカルも担当している。

また前作に引き続き音楽的実験も全開。「Sunday Bloody Sunday」「Drowning Man」では後にIn Tua NuaとThe Waterboysに参加するスティーブ・ウイッカムのヴァイオリンを、「Red Light」ではケニー・フラドリーのトランペットを、 「Like A Song…」「Red Light」「Surrender」ではThe Coconutsのバックコーラスをフィーチャーしている。またボノが「エッジのようにギターを弾くな。ミック・ジョーンズのように弾け」と盛んにけしかけたこともあって、エッジのギターのディレイもエコーも控えめである。が、細工を凝らしたせいでライブでの再現が難しくなったせいか、初期の代表作といわれるわりには、ライブで1回も演奏したことがない曲が3曲(「Drowning Man」「The Refugee」「Red Light」)、1回しか演奏したことがない曲が1曲(「Like a Song...」)含まれることになった。

当時、このような硬派なロックアルバムを発表することは、「恐ろしくダサいこと」(ボノ談)と思われていたが、果たしてアルバムはヒット。UKアルバムチャートでは初の1位に輝き、USでは初のゴールドディスクを獲得、、New Year's Dayという念願のシングルヒットも生まれた。

これでU2はほんの少しステージを上がることができた。

『ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・グレイテストアルバム500』に於いて、223位にランクイン[1]
アルバム・ジャケット

このアルバムのカヴァー写真の少年は、ボノの友人であるグッギ(ヴァージン・プルーンズの元メンバー)の弟で俳優のピーター・ローウェンである。彼の写真は他にも『ボーイ』や『ザ・ベスト・オブU2 1980-1990』といったアルバムのジャケットにも使われている。純粋であどけない表情だった『ボーイ』から一転、鋭い視線を投げかけており、U2の姿勢を端的に表現している。
収録曲
ブラディ・サンデー - Sunday Bloody Sunday

セカンド- Seconds U2史上エッジが初めてリードヴォーカルを取った曲。当時、作詞の作業に孤独を感じていたボノはエッジに歌詞を書くように勧めた。作詞に興味のないエッジだったが、 「It takes a second to say goodbye」というフレーズを思いついた。曲のテーマは1979年のスリーマイル島原子力発電所事故を受けて世界中で盛り上がっていた反核運動。歌詞の「Drop The Bomb」は同じアイランドに所属するTrouble Funkというドゥワップバンドの同タイトルの曲からの引用[2]である。また途中挟み込まれるテレビの音は「Soldier Girls」という女性兵士の訓練模様を撮影したドキュメンタリー映画から採った[2]。ボノがウィンダムレーン・スタジオの待合室でテレビを観ているとき、このドキュメンタリーが流れて、曲に使おうと思いついたのだ。エッジはボノの歌真似をして歌っているおかげでファンの中にもボノが歌っていると勘違いしている人がたまにいる。

ニュー・イヤーズ・デイ - New Year's Day

ライク・ア・ソング - Like a Song...                ボノ曰く「この曲は僕たちが何者であるかを知らず、本物のパンクではないと考えいている人たちい対する批判の曲だ。こういったことは何度も何度も繰り返されている。みんな怒りが大好きだからね。陳腐なものなのに」[3]ということで、当時の音楽産業に対する異議申し立てのようである。

ドラウニング・マン - Drowning Man                   ボノが触りだけ書いたベケット風の戯曲からタイトルを拝借。エッジのバッキング・トラックとアダムのベース・パートにボノがヴァン・モリソン風に聖書を読むようにして即興でヴォーカルを乗せていった。「溺れる男」とはメンバーで唯一キリスト教を信仰していないアダムを指している。「Sunday Bloody Sunday」と同じくスティーヴ・ウィッカムがエレクトリック・ヴァイオリンを弾いている。                    サウンドチェックで何度か演奏されたことはあるものの、ライブでは1度も演奏されたことはない。

ザ・レフュジー - The Refugee                リリーホワイトを起用する前に後にリバーダンスで一世を風靡するビル・ウィーランと一緒に作った曲。アメリカをツアーで回り様々な人種の人々と交流したことで政治に目覚め、またケルト文化のルーツは北アフリカにあると論じたボブ・クインという映画監督が制作したドキュメンタリー映画「The Atlantean Trilogy」を観たことで、アイルランド人としてのアイデンティティに目覚めたボノ[4]は、この曲でアメリカへのアイルランド人の移民体験とアフリカ系黒人のそれを比較している(当時ボノはジョニー・ロットンの声がバクパイプに似ていると思って、彼とThe Chieftansを共演させたいと思っていたのだという[3])。

トゥー・ハーツ・ビート・アズ・ワン - Two Hearts Beat as One


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