1925年に生物学の奨学金でオックスフォード大学のクライスト・チャーチに入ったが、2年次に英語専攻に切り替えた。1928年にクライスト・チャーチを去るまで数多くの友人とめぐり合うが、とりわけセシル・デイ=ルイス、ルイス・マクニース(英語版)、スティーブン・スペンダーらとの交流は、1930年代における「オーデングループ」の発言へと繋がっていく。また、1925年に友人を介してクリストファー・イシャウッドを紹介され、交流が始まる。オーデンがイシャウッドに自作の詩を送り、イシャウッドが批評を返すというかたちで、イシャウッドは多くの助言をオーデンに与えた。 1928年の秋にオーデンは9ヶ月間イギリスを離れ、ヴァイマル共和政時代のベルリンに滞在した。当時のベルリンは同性愛に対する抑圧がロンドンに比べるとまだましだったので、これにはイギリス社会での抑圧に対抗という意味合いもあった。そこで彼の中心主題のうちの1つになった、政治的および経済的な不安を最初に経験することになった。 オーデンは、1935年にトーマス・マンの長女エリカ
1928年-1938年
イシャウッドとオーデンは、日中戦争中の1938年に中国大陸に渡り、中華民国軍支配地域を訪問した。1930年代にはマルクス主義を捨ててキリスト教に戻った。 1939年にアメリカ合衆国に移住し、1946年に国籍を取得した。1968年のノーベル文学賞の選考においては、最終候補の一人に入っていたことが、2019年1月にスウェーデン・アカデミーの公開した選考資料より明らかになっている[4]。 オーデンがナチス・ドイツのポーランド侵攻及び第二次世界大戦の勃発に際して書いた詩「1939年9月1日」は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ直後、時代と社会の実相、人々の置かれたありようを深いところで表す詩としてアメリカを中心に改めて注目され広く読まれた。
1939年-1973年
主な日本語訳書
深瀬基寛訳『オーデン詩集』筑摩書房、1955年 (「短詩集」の翻訳、1973年、せりか書房から復刊)
沢崎順之助訳『怒れる海 ロマン主義の海のイメージ』南雲堂 1962年
中桐雅夫訳『世界詩人全集19 オーデン詩集』 新潮社 1969年
中桐雅夫訳『第二の世界』晶文社〈晶文選書〉1970年
中桐雅夫訳『染物屋の手』晶文社 1973年
『筑摩世界文学大系 71 イェイツ エリオット オーデン』工藤昭雄等訳 筑摩書房 1975年
風呂本武敏訳『演説者たち』国文社、1977年
中桐雅夫訳『オーデン わが読書』晶文社、1978年
安田章一郎、風呂本武敏、櫻井正一郎編著『オーデン名詩評釈 原詩と注・訳・評釈』大阪教育図書 1981年
風呂本武敏訳『新年の手紙 詩集』国文社、1981年
山田良成訳『シェイクスピアの都市』荒竹出版 1984年 シェイクスピア論シリーズ
風呂本武敏、櫻井正一郎訳『しばしの間は 詩集』国文社、1986年
『不安の時代 バロック風田園詩』 国文社 1993年。大橋勇
中桐雅夫訳 『オーデン詩集』小沢書店〈双書20世紀の詩人〉 1993年。福間健二編
沢崎順之助編訳『W・H・オーデン詩集』思潮社〈海外詩文庫〉1993年
岩崎宗治訳『もうひとつの時代』国文社 1997年
伝記
リチャード・ホガート『オーデン序説』岡崎康一訳、晶文社、1974年
橋口稔『詩人オーデン』平凡社、1996年
引用された作品
フォー・ウェディング(イギリス映画、1994年)- ゲイの友人を亡くした男性が弔辞として「葬儀のブルース」 (Funeral Blues) を朗読