ウィリアム・ヘンリー・フィッツヒュー・リーWilliam Henry Fitzhugh Lee
ウィリアム・ヘンリー・フィッツヒュー・リー
生年月日1837年5月31日
出生地バージニア州、アーリントンハウス
没年月日1891年10月15日
死没地バージニア州アレクサンドリア
所属政党民主党
配偶者1: シャーロット・ウィッカム
2: メアリー・タブ・ボーリング
バージニア州上院議員
選挙区バージニア州
在任期間1875年 - 1878年
バージニア州選出アメリカ合衆国下院議員
選挙区バージニア州
在任期間1887年 - 1891年
テンプレートを表示
ウィリアム・ヘンリー・フィッツヒュー・リー、(英: William Henry Fitzhugh Lee、1837年5月31日-1891年10月15日)は、ルーニー・リー(Rooney Lee)、あるいはW・H・F・リー(W.H.F. Lee)とも呼ばれ、アメリカ合衆国、南北戦争の南軍将軍、ロバート・E・リーとメアリー・アン・ランドルフ・カスティス夫妻の次男である。リーは農園主であり、南北戦争では南軍の騎兵将軍となり、後にアメリカ合衆国下院議員を務めた。 リーはバージニア州アーリントンのアーリントンハウスで生まれた。ハーバード大学で学び、その後父の足跡を辿って1857年に少尉としてアメリカ陸軍に入隊した。アルバート・ジョンストンの下で第6アメリカ歩兵連隊に配属され、モルモン教徒に対するユタ戦争に参戦した。1859年、アメリカ陸軍から除隊し、バージニア州ニューケント郡パマンキー川南岸にあるホワイトハウス・プランテーションを経営した。 南北戦争の開戦と共に、リーは南軍騎兵隊で大尉になり、間もなく少佐に昇進した。当初、1861年と1862年初期は、ウィリアム・ローリング准将の指揮下でウェストバージニア州で従軍した。その後J・E・B・スチュアート少将の指揮下に入り、中佐となり、更に後に第9バージニア騎兵隊の大佐となった。 サウス山の戦い後、リーは准将に昇進した。従兄弟のフィッツヒュー・リー准将の指揮下でアンティータムの戦いに参戦した。フレデリックスバーグの戦いとチャンセラーズヴィルの戦いでは、スチュアートの騎兵軍団に属する第3旅団を指揮した。ゲティスバーグ方面作戦の緒戦であるブランディ・ステーションの戦いで負傷し、快復中の2週間後にバージニア州ヒッコリーヒルで北軍に捕まった。1864年2月25日に南軍に戻るまで、ニューヨーク州で戦争捕虜になっていた。このとき北軍のニール・S・ダウ准将と捕虜交換された。4月、リーは少将に昇進し、ピーターズバーグ包囲戦の開始時点からアポマトックス方面作戦で父の北バージニア軍が撤退するまで、騎兵軍団で1個師団を指揮した。戦争が終わるまでに、南軍騎兵隊の副指揮官に昇格していた。1865年4月9日、アポマトックス・コートハウスで父と共に降伏した。 リーは戦後、ホワイトハウス・プランテーションに戻り農業を行った。近くの川向こう、キングウィリアム郡にあるロマンコック・プランテーションには弟のロバート・E・リー・ジュニアが住んでいた。 1873年に母が死んだ後で、リーはフェアファックス郡にある古くからのフィッツヒュー家の資産(今日のスプリングフィールド近く)レイブンズワース・プランテーション、563エーカー (2.3 km2) を相続した。リーはホワイトハウスからそこに移った。1875年、リーはバージニア州上院議員に選ばれ、1878年まで務めた。その後民主党員として1887年にアメリカ合衆国下院議員に選出された。リーは下院議員を1891年にレイブンスワースで死ぬまで務めた。リーはバージニア州レキシントンのワシントン・アンド・リー大学にあるリー・チャペルに、その両親や兄弟と共に埋葬されている。 リーは2度結婚した。初めは1859年に弁護士ジョン・ウィッカムの子孫であるシャーロット・ウィッカムとだった。この二人には男と女の子がそれぞれ1人ずつ生まれたが、幼時の間に死んだ。シャーロットは1863年に死んだ。 1867年11月28日、ロバート・ボーリングとその2回目の妻アン・スティスの子孫であるメアリー・タブ・ボーリングと再婚した。この夫妻には子供が2人生まれ、共に成人になった。ピーターズバーグで1869年2月11日に生まれたロバート・エドワード・リーとレキシントンで1872年8月30日に生まれたジョージ・ボーリング・リーだった。 リーはジョージ・ワシントンとは養子縁組で5代目の子孫にあたる。リーの母、メアリー・アン・ランドルフ・カスティスはワシントンの妻マーサ・ワシントンの曾孫であり、ワシントン夫妻が1759年に結婚する前、当時大佐のワシントンが未亡人だったマーサと交際したのが、当時住んでいたニューケント郡のホワイトハウス・プランテーションでのことだった。このプランテーションをリーは相続した。
初期の経歴
南北戦争
戦後の経歴
家族
参考文献
Eicher, John H., and Eicher, David J., Civil War High Commands, Stanford University Press, 2001, ISBN 0-8047-3641-3.
外部リンク
⇒AOTW: Colonel William Henry Fitzhugh Lee
⇒About Famous People: William Henry Fitzhugh Lee
.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}United States Congress. "W・H・F・リー (id: L000208)". Biographical Directory of the United States Congress
全般
⇒FAST
ISNI
VIAF
WorldCat