Wヤング
[Wikipedia|▼Menu]

Wヤング
メンバー平川幸男
佐藤武志
元メンバー
中田治雄
別名ダブヤン
結成年1964年
解散年2019年
事務所
吉本興業
現在の活動状況解散(死別)
受賞歴
上方演芸の殿堂入り(2020年)
テンプレートを表示

Wヤング(ダブルヤング)は、かつて存在した吉本興業所属の漫才コンビである。愛称はダブヤン。コンビは第1次Wヤング(平川・中田のコンビ)と第2次Wヤング(平川・佐藤のコンビ)の2期間存在する。解散を発表しないまま平川が死去したため、事実上の解散状態となっている。
メンバー

平川幸男(ひらかわ ゆきお、
1941年10月5日 - 2019年11月11日[1]) 本名:平川 幸朗(ひらかわ こうろ)[1]。漫才師、歌手。立ち位置は右。
なんばグランド花月など定期公演でWヤングとして登場する時は「現役最高齢の吉本芸人」を自称していた。戦前に吉本の端席に出ていた万才の唄の家なり駒を叔父に持つ。第2次時代からはボケ(一部場面ではツッコミ)担当だが、第1次時代はボケ・ツッコミ両方を担当していた。兵庫県神戸市出身。元々歌手志望であり、西川ヒノデに弟子入り前は3年間、鈴河政雄の元で歌手修業をしていた。1973年には念願の歌手デビューも果たす。また、耐久カラオケのギネス記録を持つ(現在も保持している)。第1次Wヤングでは「平川 幸雄」の芸名で活動していた。読みは現在の芸名と同じ。本名が、ボヤキ漫才の「人生幸朗・生恵幸子」の人生幸朗と同じ名前だが、偶然の一致である(「人生幸朗」を名乗りだしたのは、1955年)。演歌歌手の秋岡秀治(本名:平川幸仁)は長男[1]。妻は有馬温泉芸子で、2010年に亡くなっている[1]。2019年11月上旬[2]大阪府内の病院に入院し療養生活を送っていたが、11月11日夜に容体が急変し死去[1][2]。78歳没。

佐藤武志(さとう たけし、1954年10月5日 - ) 本名:佐藤 武司(読み同じ)。
ツッコミ(一部場面ではボケ)担当、兵庫県尼崎市出身。立ち位置は左。県立尼崎高校卒業後、森永乳業に半年勤務、1973年10月に吉本新喜劇入団。愛称は、新喜劇入団当初は風貌容姿から「まる坊」、現在は「まる兄さん」「まる兄」。新喜劇では、何かのきっかけで突然理不尽に暴れ出すギャグを得意としていた。1984年に漫才業に専念するため新喜劇から離れていたが、平川死去後の2019年12月より35年ぶりに新喜劇の座員として復帰した[3]。妻は吉本新喜劇の女優浅香あき恵
元メンバー

中田治雄(なかた はるお、
1937年12月2日 - 1979年10月25日)本名:中田 軍治(なかた ぐんじ)。
愛称は「軍ちゃん」。ボケ・ツッコミ両方を担当していた。奈良県大和高田市出身。奈良県立高田高等学校卒業。

高校卒業後住友銀行に就職するが、東映ニューフェイス第6期に合格して俳優デビュー。

その後、西川ヒノデショーのバンドメンバーとして活動する中、同メンバーの平川と出会う。

声質が上岡龍太郎笑福亭仁鶴に似ていた。楽屋でやっていた野球賭博に手を出した事と事業の失敗で多額の借金を抱え、1979年10月25日熱海の海岸で飛び降り自殺した[4][5]。41歳没。人気絶頂の最中での突然の死は多くの芸人に衝撃を与えた。発見現場近くの展望台には漫才の台本などが入ったカバンが残されており、便箋5枚に渡る「死出の旅」という遺書には「人はいさ心も知らぬ故里に死ぞ昔の香に匂ひけり」と辞世の歌が書かれていた。告別式の時には、平川は棺の前で「なんで死んだんや!」と号泣した。博打と事業で儲けようとしていたようだが結局は自分の意志が弱く、借金で追い詰められ最後は自決という形での最期を選んだのであった。事件の前には中田本人から借金の事を聞いた平川の主導で吉本興業に借金の肩代わりを頼んだりもしたが、その際中田は借金の正確な額をどうしても言い出せず、肩代わりしてもらった残りの分を返済するべく再度博打に手を出し、これが悲劇につながった。この事は現在でも賛否両論の声があり、また平川は「その時に借金全額を口に出せる勇気があったならこんな事にはならなかったのに」と語っている。また事件の後の11月1日には、母親の和嘉も国鉄巻向駅構内で線路を横断中に急行列車に撥ねられ亡くなっている(69歳没)。和嘉はワイドショー「独占!Wヤング自殺、涙の遺書初公開」を視た後に駅へ向かう途中だったという。なお、同じ中田姓の中田ダイマル・ラケット(本名・芸名共に中田姓)と師弟関係及び兄弟親子関係と思われる事も有った様だが、実際は師弟関係及び直接のつながりはない。「天国のスタア2006」や「なつかしの昭和爆笑漫才?天国の笑星?」では本名でテロップが出されていた。
来歴

中田は住友銀行に勤務。1956年に何気なく受けた東映ニューフェイスのオーディションに合格し役者を目指すもいい役どころに恵まれず断念(同期には里見浩太朗がいた)。1961年に映画の仕事で知り合った西川ヒノデ(「西川ヒノデショウ」という4人組のコミックショウのリーダー。メンバーの中に二代目西川サクラ=後のフラワーショウの華ぼたんがいた。後の「西川ヒノデ・サクラ」。ちなみに西川きよしとは直接の関係はない)の弟子で[4]「西川ヒノデ・サクラ」の伴奏要員で初舞台。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:54 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef