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W★INGプロモーション(ウ★イング・プロモーション、レスリング・インターナショナル・ニュー・ジェネレーションズ・プロモーション)は、かつて存在した日本のプロレス団体。W★INGプロモーションの前身である世界格闘技連合W★ING(せかいかくとうぎれんごうウ★イング)、旗揚げ予定だった世界格闘技連合(せかいかくとうぎれんごう)についても記述している。 しかし、旗揚げ早々に分裂騒動が勃発。かねてから経営不振に加えて茨城とキニョネスが招聘した外国人選手のギャラが嵩んだこと、格闘技主体を目指す大迫と川並、プロレス主体を目指す茨城と大宝による路線対立が生じた。11月、懲戒解雇された茨城と大宝はW★INGプロモーション、大迫は世界格闘技連合、を設立。大迫の動きに先んじて茨城は12月10日に開催する後楽園ホール大会をW★INGプロモーションの旗揚げ戦として、1万ドルのギャラでミル・マスカラスの招聘を計画。旧W★ING選手会はW★INGプロモーションと世界格闘技連合の、いずれかに参加するか二者択一を迫られたが最終的には徳田、金村ゆきひろら大半の選手がW★INGプロモーションに参加することになった。世界格闘技連合は参加を予定していた齋藤が新日本プロレス[注釈 2]、木村がリングスに転戦。協力を約束していたとされるキニョネス、ポーゴらもW★INGプロモーションへ寝返る形となり、世界格闘技連合には保坂秀樹と鶴巻伸洋しか残留しなかった。12月10日、後楽園ホールでマスカラスを招聘してW★INGプロモーションの旗揚げ戦を開催。 1992年1月31日、世界格闘技連合は旗揚げ戦を開催する前に解散となり、大迫はプロレス業界から身を引いた。 W★INGプロモーションはFMWを超える過激なデスマッチ路線へ進みコアなマニア層の支持を受けるようになった。2月7日、後楽園ホール大会で松永光弘がバルコニー席から6メートルのダイビングを見せて、人気が上昇して主軸であるデスマッチ路線のエースとして君臨[注釈 3]。旧W★INGから参戦した徳田、金村らと共にキニョネスが率いるユニット「プエルトリコ軍団 大仁田が率いるFMWとは離脱の経緯もあり、過激なデスマッチによる興行戦争を繰り広げた。その中でもファイヤーデスマッチを巡る興行では、5月6日のFMWニチイ三田店駐車場特設会場大会で大仁田&ターザン後藤対ザ・シーク&サブゥー戦で先手を打つ形で日本で初めて行って大きな話題になった。しかし、予想以上に火の勢いが強すぎて選手が酸欠状態になり、シークが大火傷を負うなど結局試合は不成立になった。W★INGプロモーションはファイヤーデスマッチ危険性を逆手にとって宣伝として、8月2日の船橋オートレース場駐車場特設会場大会でポーゴ対松永戦でファイヤーデスマッチを強行して5千人近い観衆を集めた。FMWの失敗を受けて方法を見直してリングサイドにプロパンガスを使用した鉄板が置かれて、コーナーには花火を噴射する仕掛けに変更。リングサイドでの攻防ではポーゴが松永の右足を鉄板に押し付けるなど標榜していた「人間焼肉デスマッチ」の名の通りになった。さらに5月7日の後楽園ホール大会でポーゴ対ジェイソン・ザ・テリブル
歴史
設立までの経緯、レフェリーの川並政嗣、リングアナウンサーの大宝拓治、ブッカーの茨城清志とビクター・キニョネス(CSP)らが大仁田厚との確執から相次いでFMWを離脱。6月16日、キニョネスらはCSPの日本支部的な位置付けとしてCSPJを設立。8月7日、世界格闘技連合W★INGとして後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。W★INGでは、かつてFMWに参戦経験のある柔道の徳田光輝、空手の齋藤彰俊(誠心会館)、総合格闘技の木村浩一郎(SAW)を「格闘三兄弟」と命名して3人を軸とした格闘技路線に加えて、茨城とキニョネスがブッキングした外国人選手によるデスマッチが絡む構図としていた[注釈 1]。
分裂
全盛期
デスマッチに加えて外国人選手の招聘にも力を入れており、茨城とキニョネスのルートで前述のマスカラスを筆頭にカネック、ジプシー・ジョー、ドス・カラス、ザ・ヘッドハンターズ、ミゲル・ペレス・ジュニアを招聘。また、ジプシー・ジョーのルートでUSWAからエディ・ギルバート、トム・プリチャード、ビル・ダンディー、ジャイアント・キマラ、ザ・ムーンドッグスを招聘。マスカラスやジョーをはじめディック・マードック、マスクド・スーパースター、ワフー・マクダニエル、イワン・コロフら大物選手の招聘も実現させている。さらにプロレス界初の大晦日興行も実現させた。 過激なデスマッチと豪華な外国人選手路線で上昇ムードだったが、茨城の経営は放漫そのものであり度々問題を起こしていた。興行の開始時間が予定より、30分以上遅れるのが常態化していたのもさることながら、特に茨城によるギャラの未払い、借金の踏み倒しは有名となっており、全試合終了後に駐車場で選手たちに詰め寄られている姿が専門誌に掲載されたほどである。この様な経営状態もあってか、1993年以降は主力選手のポーゴと松永がFMWの引き抜き工作によって離脱。さらに戸井ら中堅選手も多くが離脱。加えて無断欠場を続けていた徳田が解雇されて選手層の弱体化は明白なものとなっていた。一説には契約書すら存在していない状態だったと言われている。 松永とポーゴの離脱以降は金村をエースに据て、FMWから転じた中牧昭二らが屋台骨を支えた。しかし、選手の戦力層の薄さは明白となっており、ユニバーサル・プロレスリングを離脱してメキシコ経由で参戦してきた邪道と外道、オリエンタルプロレス所属だった荒谷信孝など所属選手外の選手に依存せざるを得なかった。その様な中で10月31日の小田原駅前旧市営球場大会で金村&中牧組対邪道&外道組戦によるスクランブルファイヤーデスマッチ[注釈 7]で金村が邪道によるパワーボムを火が回ったマットへ受けて背中に大火傷を負って欠場すると、その傾向が顕著な形になった。
放漫経営による崩壊