VHS
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VHS陣営はファミリー形成を重視した展開を行った[11]。これが功を奏し、VHSを採用するメーカーを多数獲得して、共同で規格の充実を図る体制を確立した。また、家電メーカーを獲得したことによりその販売網を利用できた。特に松下電器産業が採用したことが大きい。ベータマックス陣営には家電販売網を持つ東芝などの存在もあったが、松下の販売網の規模と緻密さは大きく影響したと言われている。
量産に適した構造だったこと
VHSは量産に適した構造で、普及期に廉価機の投入など戦略的な商品ラインナップを実現できた[11]。ベータはUマチックと同じUローディング方式をそのまま用いたのに対し、VHSは開発が難航したものの部品点数が少なく生産もしやすいMローディングを採用した[注釈 3]。記録時間を最初から実用的な2時間に設定しその後も長時間化に成功したこと、欧州・米国市場でのOEM供給先を獲得することに成功したこと[11]、などが要因として挙げられる。
耐久性&互換性を重視した設計だったこと
VHSは高画質化よりも長期耐久性や再生互換性を最重要視する設計の規格で、レンタルビデオ市場やセルビデオ市場を創造した。また関連会社の資金提供で映画やAV作品などのタイトルを豊富に作らせ、セルビデオソフト店が無かった黎明期は大手電器販売店の近所に作ったアンテナショップで販売した。
ベータ側の広告戦略の失敗
ベータ規格主幹のソニーによる広告戦略の失敗もあった。1984年(昭和59年)1月25日から4日間、ソニーが主要新聞各紙に広告を連続で掲載し、見出しは「ベータマックスはなくなるの?」「ベータマックスを買うと損するの?」「ベータマックスはこれからどうなるの?」となっており、最終日に「ますます面白くなるベータマックス!」と締めくくる展開であった[11]。これは当時の新製品を告知する逆説的アプローチだったのだが、消費者には理解されず『ベータ終了』と短絡的に捕らえ、これを機にベータ離れが加速された[11]

ビデオソフトのシェアは、1980年にVHSがベータを上回った。1989年(平成元年)頃まではメーカーはVHSとベータを併売していた(一部メーカーは8mmビデオソフトも供給)が、ベータファミリーが崩壊し各社がVHSへと移行した。ソニーも1988年(昭和63年)にVHS/Beta/8mmビデオデッキを併売するようになり、ベータは市場シェアを徐々に落としたことから、ビデオソフトメーカーはビデオソフトをVHSのみで発売するようになり、レンタルビデオ店でもVHSが標準となった。家電量販店などでもビデオデッキはVHSやS-VHSが主流となった。より高画質を求めたベータユーザーはベータソフト供給打ち切り前後を境にレーザーディスク(LD)へと流れて行った。

セルビデオやレンタルビデオのソフトの再生互換性を鑑みて、各社独自仕様のVHSビデオデッキの発売は基本的には許されなかったが、1996年にシャープがダブルチューナを搭載し同時二番組録画・再生対応した「VC-BF80」を発売した。同時二番組録画・再生はVHS方式には規格されておらずVHS方式とは互換性が無く、当該機種で録画されたテープはシャープ製を含め他社VHS機種での再生も当然不可能であった。S-VHS搭載機でも、VHSの録画・再生は可能である。

ベータでは、βI・βIs(5.6 MHz Hi-Band)・βIsSHB(6.0 MHz Hi-Band)・βII(X2)・βIII各モード、Hi-BandBeta(5.6 MHz/βII・βIII)、BetaHi-Fi、ED-Betaなどの規格があったが、VHSはSP(標準)・LP(2倍/日本国内仕様では再生のみ対応)・EP(3倍)、VHSHi-Fi、S-VHSの、録画スピード2種類、映像信号2種類、Hifi信号重畳の有無、の簡素な組み合わせとなっていた。末期には S-VHS-ET、S-VHSDigitalAudio、W-VHS、D-VHSが乱立したが、初号機HR-3300以来のVHS標準モードで録画されたテープは、最終生産機でも再生できた。ベータは初期の標準モード・βIモード専用機種等では、後に開発された長時間モードや高画質・高音質規格で録画されたテープが再生できない環境にあった。VHSではテープカートリッジを小型化した VHS-C、S-VHS-C規格があったが、アダプターを介して据え置き型レコーダーで録画再生が可能であった。

ベータのビデオソフトではハイグレードテープを使用して、磁気保磁力が強い総メタルテープのマスターをスレーブのテープに超高速磁気転写プリントする方式をソニーが1980年代に開発したが、商業的には成功しなかった。VHSでは、画質劣化の少ない等速でのソフトウェア生産作業のために、幅広ヘッド搭載のダビング専用機が発売された。ベータ、VHSともにLDやVHD等のビデオディスクよりも高価なビデオソフト価格であった。1990年代に入り、OTARIがTMD高速熱転写方式による「T-710ビデオ・デュプリケーター」を開発し、VHS・SP(標準)モードで300倍速の高速プリントを実現しソフト製造の高速化が図られたが、同装置は単価の高いクロームテープを使用[12]、販売台数はわずかであった。いずれにしてもビデオソフトの低価格化が進んだ。

VHS対ベータ戦争の火ぶたが切られたとき、ビクターはVHSファミリーの中で技術的問題や生産能力でまだVHSデッキを製造できないメーカーにOEM供給していた。ときには自社ブランドよりOEM供給向けの生産を優先していたこともあるという。それは様々なメーカーで販売することにより他社の販売網を活用できる上、VHSが多数派であるという印象を持たせる狙いもあったと言われる。なお、ソニーもベータファミリー各社の生産体制が整わないうちには自社製品をOEM供給していた。

VHS対ベータ戦争では負けたといわれるソニーだが、VHSで使われる技術にもソニーの保有する特許が多数使われているため、少なからぬライセンス収入があった。これは1969年(昭和44年)のU規格策定時にソニー/日本ビクター/松下電器の3社が結んだクロスライセンス契約が関係している。

両方式の基本的な記録方式である、回転2ヘッドヘリカルスキャン記録は日本ビクターの特許であり、ベータ長時間化での信号処理技術は日本ビクターの特許であった。ソニーはUテープローディング技術を始めとする非常に多数のVTR特許技術を保有していたが、VHSはMローディングであり日本ビクターの特許であった[注釈 4]。しかし色差信号漏話除去はソニーの特許のため、ソニーとクロスライセンスを契約を結んでいなかった日立製作所、三菱電機、シャープ、赤井電機などのVHS陣営各社がVHSビデオデッキを発売した際、ソニーと特許利用契約を結ぶ必要があった[13]。また、磁性材料から含め約28,000件にも達するビデオカセットテープに関する特許技術もソニーがほぼ掌握しており、ソニーとクロスライセンス契約を結んだ松下電器、日本ビクターはVHS方式発売当初、自社によるビデオカセットテープ生産設備を保有をしていなかったため、TDK・富士フイルム・住友スリーエムなどからのOEM供給で凌いでいた。ソニーと特許利用契約を結んだ日立製作所は日立マクセルのOEM供給によりVHSビデオカセットテープを発売。1978年(昭和53年)にソニーがクロスライセンス契約を結んでいないテープメーカーに対しても有償で特許を公開する方針としたため、テープメーカーが独自でVHSおよびBetaビデオカセットテープの発売が可能となった[14]

ビデオ戦争の末期には、ソニー製のVHSビデオデッキを望む声が市場から上がっていた。このことがソニーがVHS方式に参入する一つのきっかけとなっており、VHS・ベータ・8ミリのフルラインナップで「VTRの総合メーカー」を目指す方針に転換した。1988年(昭和63年)にソニーがVHS方式へ参入した際、障壁となるものは全くなかった。松下電器・日本ビクターとはクロスライセンス契約を結んでいたため、VHS参入時、松下電器・日本ビクターへVHS発売の了解を得る必要性すらなかった。実際、Uローディング準じた機構を採用したデッキでは「マッハドライブ」の愛称で出画時間の速さを売り物に宣伝するなど、自社の保有する特許を相当活用していた。

また、当時ソニーの子会社だったアイワ(初代法人)は親会社に先行してVHSに参入していた。最終的な販売台数は、VHS約9億台、ベータ約3500万台とされている。
VHSの需要低下と終焉

1976年からテレビなどの録画媒体として使用されるVHSであったが、2000年代に入るとDVDハードディスクレコーダパソコンの普及、高精細テレビ放送やBlu-ray Discの登場、多くの国でのデジタルテレビ放送の開始といった「デジタル時代」「ハイビジョン時代」の中で、それに対応できないVHSカセットやVHS単体機は次第に売れなくなっていった[注釈 5]。デジタルレコーダーとの複合機も、過去のライブラリーをデジタル化することに重点が移り、テレビ番組の録画ができないタイプのものが増えた。

アナログ磁気テープはデジタルメディアに対して音・画質共に悪いうえに劣化が著しく、頭出しや巻き戻しも面倒で、再生装置も巨大になる。VHSの場合水平解像度が240本とアナログテレビ放送の330本より低い。画質面は、1987年に高画質版VHSであるS-VHS、1999年にはデジタル録画対応VHSであるD-VHSが発売されるもデッキが高価であり、同年にパイオニア(ホームAV機器事業部。現在:オンキヨーテクノロジー/ティアック)がDVDレコーダーを発表したこともありそれほど普及しなかった。また、DVDの普及に一役買ったのが、かつてのライバル・ソニーの関連会社であるソニー・コンピュータエンタテインメント(現・ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の家庭用ビデオゲーム機であるPlayStation 2であった。

こうした状況も重なり、日本ビクター2007年(平成19年)5月30日、経営不振による事業再建策として、VHSビデオ事業からの撤退清算を発表した[15]2008年(平成20年)1月15日にS-VHS単体機を全機種生産終了したと発表し[16]、同年10月27日にはVHS方式単体機の生産を終了した。

ビクターの撤退により、日本国内メーカーのVHSビデオ単体機の製造は船井電機(以下、フナイ)のみとなったが、やがてフナイも完全撤退した[8]。以降はDVD、HDDなどの複合機として展開されていたが、大幅に縮小された[17]

各社はテレビの完全デジタル化を考慮し、販売の主力をHDD併用のブルーレイレコーダーに移したことで、次第に商品ラインナップは縮小し、これにあわせ録画用ビデオテープから撤退する事業者も相次いだことで、現在はほぼ市場から消滅している。S-VHS用テープは既に販売終了となっており、2014年12月末で日立マクセル(現在:マクセル)も生産終了。2015年2月にはTDK(←イメーション〈現在:グラスブリッジ・エンタープライゼス〉のTDK Life on Recordブランド)も生産終了となり、2015年6月には録画用テープの在庫切れが目立ってきた。

2010年代に入っても、VHS一体型のDVDレコーダーないしBDレコーダーが製造されていたが、各社とも2011年末までに生産完了となった。2011年末までVHS一体型のDVDレコーダーを発売していたのは、フナイと当時の子会社DXアンテナ以外ではパナソニックDIGA「DMR-XP25V」(パナソニック自社生産)と東芝「D-VDR9K」(フナイのOEM)であった。


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