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V2ロケット
ペーネミュンデの記念館にあるA4ロケットの実物大の模型
種類単段式弾道ミサイル(エリア爆撃)
原開発国 ドイツ国
運用史
配備期間1944年9月8日 - 1952年9月19日
V2ロケットは、第二次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ロケットであり、弾道ロケットである。それ以前から開発されていたアグリガット(Aggregat)ロケットシリーズのA4ロケットを転用・実用兵器化し、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが報復兵器第2号(Vergeltungswaffe 2)と命名したため、この名で呼ばれることとなった。この兵器は同大戦末期、主にイギリスとベルギーの目標に対し発射された(→発射映像[3])。後にアメリカ合衆国でアポロ計画を主導したヴェルナー・フォン・ブラウンが計画に参加し設計を行ったことで知られる。
開発牽引式発射装置上のV2
1927年に結成されたドイツ宇宙旅行協会は、宇宙旅行を目指して1929年頃から液体燃料ロケットを研究していた。ヴェルサイユ条約で大型兵器の開発を禁止されていたヴァイマル共和国の陸軍は、1932年に同協会が開発中の液体燃料ロケットが持つ長距離攻撃兵器としての可能性に注目、ヴァルター・ドルンベルガー陸軍大尉は、資金繰りに悩むアマチュア研究者だったヴェルナー・フォン・ブラウンらの才能を見抜き、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けるよう勧誘した。
ヴェルナー・フォン・ブラウンらはこれに応じて同研究所に参加、1934年12月、エタノールと液体酸素を推進剤とする小型のA2ロケット(質量500 kg)の飛行実験を成功させた。
1936年までには、チームはA2ロケットの開発計画を終了し、新たにA3 と A4 の開発に着手した。後者は射程175 km、最大高度80 km、搭載量約1 tとして設計された。フォン・ブラウンの設計するロケットは兵器としての現実性を増しつつあり、ドルンベルガーは実験規模を拡大し、かつ研究活動を秘匿するため、開発チームをベルリン近郊のクマースドルフ陸軍兵器実験場(Heeresversuchsanstalt Kummersdorf)からドイツ北部バルト海沿岸のウーゼドム島ペーネミュンデに新設したペーネミュンデ陸軍兵器実験場(HVP)に移した。
A4の約1/2スケールモデルのA3は4回の打上げに全て失敗したため、A5の設計が始められた。このバージョンは完璧な信頼性を備え、1941年までに約70機が試射された。
最初のA4は1942年3月に飛行、およそ1.6 km飛んで海中落下した。2回目の打上げでは高度11.2 kmに到達して爆発した。
1942年10月3日の3回目の打上げで成功。ロケットは完全な軌跡を描き、宇宙空間に到達した初の人工物体となって192 km先に落下した。
ヒトラーは1939年にクマースドルフ陸軍兵器実験場で2回の試射を視察するまでは兵器としての潜在性を認識していなかったが、視察後、関心を抱いた[4]。V2量産は軍需省のこの計画の責任者であったゲルハルト・デーゲンコルブ(De:Gerhard Degenkolb)に承認された。彼らは権限を持っており、些細なことでも承認を得るのにエネルギーを費やしたと後にフォン・ブラウンは語っている[4]。干渉にもかかわらず、2年間で100機のV2が製造された。
1940年頃からイギリス軍情報部は写真偵察からこの開発計画を察知、1943年8月にペーネミュンデを爆撃した(ハイドラ作戦)。このため、同年11月から生産テスト・発射訓練部隊は内陸部奥深くの武装親衛隊演習場、ハイデラーガー(Heidelager、現ポーランドのブリツナ Blizna)に移動した。1944年5月には、試射されたミサイルをポーランド人レジスタンスがブク川の土手から回収、極めて重要な技術的詳細をイギリスに伝えたこともあり、連合軍はペーネミュンデを数回にわたって爆撃し、研究と生産を遅延させた。
親衛隊はロケット開発を傘下に収めようとして、司令官を陸軍のレオ・ツァンセンから親衛隊のハンス・カムラーへ交代させようとしたが、ドルンベルガーはこれを阻止した。親衛隊はあきらめず、1944年にフォン・ブラウンを東プロイセンのゲシュタポへ召喚し、ハインリヒ・ヒムラーは彼に軍を除隊して彼のために働くように強制しようとした[4]。フォン・ブラウンはこの要請を辞退した。数日後、彼は3人のゲシュタポによって逮捕され、2週間後にシュテティーンの収容所において、「軍用ロケットには関心が無く宇宙探査を目的として働いていて、イギリスへロケット設計図と共に小型機で亡命する計画がある」という嫌疑により、親衛隊による裁判にかけられた[4]。ドルンベルガーはヒトラーにフォン・ブラウンの釈放を直訴し、釈放された[4]。
V2を移動式兵器にするには問題を解決する必要があった。それは研究室に近い環境での推進剤充填、整備、設定を必要としたことである。