V1飛行爆弾
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V-1(ブイワン、ドイツ語でファオ-アインス)は、第二次世界大戦時にドイツ空軍が開発したミサイル兵器である。パルスジェットエンジンを搭載した、現在の巡航ミサイルの始祖とも言える兵器である。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスはこれを「報復兵器第1号(Vergeltungswaffe 1)」と命名して対英報復を煽った。V-1 とは上記の略号で、正式名称はフィーゼラー社が生産したことからFi 103である。V-1
V-1の実用化ハインケル He 111に吊り下げられたV-1V-1を輸送する兵士

1933年頃、フィーゼラー社が空軍に対してこの種の兵器の開発を提案していたと言われるが、空軍は関心を示さなかった。しかし、1942年6月、ドイツ空軍はフィーゼラー社に対してパルスジェットを動力とする飛行爆弾の開発を命じた。開発の理由は、この時期にはもはやイギリス本土に対する有人の双発爆撃機による戦果は期待出来ず、また陸軍が開発中の V-2 への対抗意識もあったと言われている。この飛行爆弾には有人飛行機同様フィーゼラーFi 103 の呼称が与えられたが、兵器の特性上、機密保持の観点から「Kirschkern(サクランボの種)」及び「Flakzielgerat(高射砲標的装置)」と呼ばれ、秘匿される。

なお、パルスジェットエンジン本体はアルグス社、誘導装置をジーメンス社、発射台をヘルムート・ヴァルターの会社が担当したので、フィーゼラー社が携わったのは機体本体のみである。

誘導装置はジャイロスコープによって方向を、アネロイド気圧高度計によって飛行高度を設定し、機首先端にある小さなプロペラの回転数によって飛翔距離を割り出した上で、一定回転数でエンジン停止させることにより、制御装置が機体を急降下させ目標に突入する。パルスジェットエンジンは、この時代に研究されていた他のジェットエンジンに比べると格段に構造が簡単なうえに、大戦当時において他の燃料より調達しやすかった自動車用の低オクタンガソリンで作動できる長所を備えていた。

1942年12月、Fw 200コンドルから投下実験、同12月には V-2 の実験を行っていたペーネミュンデ陸軍兵器実験場 (HVP) の西隣にある空軍兵器実験場カールスハーゲンから、バルト海に向けて試射に成功した。開発を命じてからわずか6ヶ月というスピードであるが、これは V-2 が新技術を大量に導入したのと比して、極めて単純な構造であったためである。こうして、この新兵器は、長距離ロケット V-2 のライバルとなった。イギリスに対する長距離攻撃兵器として V-2 とどちらを採用するかは、新たに発足された長距離攻撃委員会に委ねられた。

1942年5月26日、長距離攻撃委員会の委員はペーネミュンデで討議を行い、結局はどちらも生産するという結論に達した。委員は発射見学をするが、このとき V-2 は50%の成功確率であったにもかかわらず2回中2回成功、かたやV-1は2回中ともに墜落という不運に見舞われる。当然、軍は V-2 に注目、割りを食ったV-1は1944年6月にようやく実戦配備となる。実にノルマンディー上陸作戦の1週間後である。
V-1の成果再現された発射台に設置されたV-1。フランス北部パ=ド=カレー県エペルレックの組立用ブンカーおよび発射基地の跡地に設けられた博物館 Blockhaus d'Eperlecques に設置されている)復元されたV-1の発射台

V-1は、空軍第155対空連隊に配備された。同連隊は大規模な発射設備の他に移動可能なカタパルト式発射機を装備していたと言われている。大規模発射施設は V-1 の存在を事前に察知していた連合軍の爆撃によって破壊されたものもあったが、約半数が生き残り北フランスカレー地方から19発が発射された。しかしイギリス、ロンドンに到達したのはわずかに1発で、ほかは進路をはずす、途中で墜落するという到達率の低さであった。6月末までに2,000発を発射したものの依然として到達率は低かった。その後1日平均102発を発射、9月はじめまでに計8,564発(諸説あり)が発射されたものの、ロンドンに到達したのは2,340発だった。

最終的には72%が撃墜、または墜落だった。なお、全8,564発中1,912発(22%)はイギリス戦闘機により撃墜、1578発(18%)が対空兵器によって撃墜、278発(3%)は阻塞気球に衝突している。

9月以降は連合国軍がカレー地方に進攻したため、陸上発射を断念、空中発射という方式をとることになる。オランダベルギーから発進したハインケルHe111に搭載されたV-1はロンドンを目指して飛んだものの、その到達率は陸上発射よりもさらに低く、6.5%となっていた。

10月に連合軍がベルギーのアントウェルペンを奪取すると、今度はこれに矛先を向けることになる。そして年末までに8,698発を発射している。他にベルギーのリエージュに3,141発、ブリュッセルにも151発が発射された。

1945年3月3日からは、オランダから改良され飛行距離の伸びたV-1が再びイギリスにむけて発射される。全275発を発射し、イギリスに到達したのは125発(45%)で、86発(31%)が対空火器で撃墜、4発は戦闘機で撃墜されている。同月28日、2発がロンドンに到達し、翌29日に最後の1発がハットフィールドに落下したのが、V-1の最後の実戦であった。

実際に発射されたV-1は21,770発にのぼり、さらに発射失敗とされているものが2,448発ある。なお、イギリスの被害は死者および重傷者24,165人であり、ヨーロッパ本土での被害は不明。

連合軍ではV-1はパルスジェットの耳障りなエンジン音から「ぶんぶん爆弾(buzz-bomb)」あるいは「ドゥードゥルバグ(doodlebug、ヨーロッパコフキコガネ(英語版)が原義)」[1]、「飛行爆弾(flying bomb)」などと呼ばれていた。そのためV-1飛行爆弾は、ロンドン市民に心理的に大きな影響を及ぼしていたと言われている。当時、夫を戦場に送り、一人シティの弁護士事務所に勤務していたロンドン女性は次のような記録を残している。そう、あの頃、V-1ミサイルが飛んできましたね。あの新型兵器はぞぉっとするような音を立てながら飛んで来て、エンジンが停止するや地面に突っ込んでゆきました。エンジンが鳴り止んだ瞬間、必ず起こるあの爆発を待つ恐ろしさといったらありませんでした。偶々、午前9時に旧市街のグレイスチャーチ通りをバスで通っておりました時のことです。・・・バスが停車して掃除婦たちがどやどやと乗ってきました。座席についた頃、乗客たちはV-1のぶぅんという低いうなりが近くでしているのに気づきました。と、はたと、V-1のエンジンが鳴り止んだのです。すると掃除婦たちは一人残らず、座席の下へと頭から突っ込んだのです。・・・幸いなことに、V-1はバスを飛び越えて、川の向こう岸で爆発しましたV-1に翼を当てるスピットファイア戦闘機(右)

また、戦闘機で撃墜可能といっても機銃しか持たない当時の戦闘機では、接近して射撃すると爆発に巻き込まれる危険性があった。この為、ある程度距離をとって射撃するか、右の写真にあるように主翼での接触などで機位を失わせて墜落させるかの方法が必要だった。後者の場合、当然どこかに墜落して爆発した。

戦後のイギリス空軍の評価では、「V-1号はランカスター爆撃機よりも炸薬量あたりの投射コストが安く、効率的な兵器」となっている。
V-1の戦略的意義イギリス軍の高射砲台(QF 3.7インチ高射砲V1飛行爆弾の爆発場所で、がれきの下の生存者を探す民間防衛部隊や消防隊の隊員。1944年、ロンドン南部アッパー・ノーウッドにて

V-1は現在の巡航ミサイルの始祖ともいえるものである。しかしながら、当時の制御技術ではV-1での精密誘導は不可能であった。よって、事後評価としては、ロンドンへの都市爆撃ではなく、戦略地域への攻撃に振り向けていれば、より大きな効果があった[2]だろうから、ノルマンディー上陸作戦でも艦船が集中する港湾地区を攻撃目標に選んでいれば、上陸戦への脅威になり得たのではないか、との意見[3]もある。


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