V号戦車パンター
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この箇所は改設計がくり返されたが、最後まで完全にはならなかった。

異説としては、「生産効率向上のため、徹底して従来からある共通部品を使用するために専用部品の製造を避け、やむを得ず不適切な部品を無理やり組み込んだ」というものがある。このため従来戦車よりも重く負荷が大きいにもかかわらず、ヘリカルギアではなく旧来の平歯車を組み合わせたため、乱暴なギアチェンジで歯が欠けて故障多発の原因となった、ということである[要出典]。
エンジン

初期生産型パンターD型の第250号車まではマイバッハV12型HL210 P30エンジン(650PS/3000rpm)が搭載されたが、第251号車以降はマイバッハV12型HL230 P30エンジン(700PS/3000rpm)が搭載された。このHL230 P30エンジンは通常のV型エンジンと異なり、両シリンダーバンク位置が長手方向にオフセットされておらず、コンパクトだが故障を促進した。またシリンダーガスケットも問題があったが1943年9月までにシール材改良により解決された。

1943年11月以降生産のHL230 P30エンジンは信頼性向上のため大きく改修された。たびたび故障原因となったベアリングは1943年11月に改良型が導入された。またエンジンガバナーも1943年11月から導入され、エンジン最大回転数は2500rpmまでに押さえられた。このため1943年11月以降生産のHL230 P30エンジンは、700PSから588PS(580hp)?600PS(592hp)へとエンジン出力が低下、パンターの最高速度は45km/h程度に低下した[1]。しかし、この各種改良やエンジン回転数・出力のデチューンによりHL230 P30の故障やエンジン寿命は以前よりも改善された。

当初クランクシャフトのベアリングは7つであったが1944年1月より8個に増やされた。

マイバッハV12型HL210 P30エンジン

マイバッハV12型HL230 P30エンジン

パンターに搭載されたトランスミッション

修理のためトランスミッションを取り外しているところ

実戦投入後

最初の量産型(D型)は、ツィタデレ(城塞)作戦に間に合わせるためにさまざまな問題が未解決のまま戦場に投入された。

重量増のため転輪や起動輪、変速機など駆動系に問題が多発。また機関部の加熱問題に対応し新たに開発、装備された自動消火装置の不具合により、燃料漏れによる火災事故も発生し、2両が戦わずして全焼全損するなど、稼働率は低かった。また最初にパンターを装備し実戦投入された第51・52戦車大隊は、それぞれ既存の戦車大隊を基に再編成されたものであったが、一握りのベテランを除く乗員は、東部戦線での実戦経験の無い新兵が多く、また訓練期間も不足していた。さらに同隊の作戦将校にも実戦経験者が少なく、指揮にも問題があり、クルスク戦では十分な活躍はできなかった[2]

後に問題点は改良され、装甲師団の中核戦車となる。それまでの中核のIII号戦車生産は打ち切り、突撃砲を除き全て本車生産ラインに切り替えられた。

1943年頃のパンターの価格は125,000ライヒスマルクで、対しIII号戦車は96,200ライヒスマルク、IV号戦車が103,500ライヒスマルク、ティーガーIが300,000ライヒスマルクと、高性能でありながら導入コストパフォーマンスが高かった[3]。しかしパンターのみでは戦車隊の損失を埋め部隊配備を充足できる程の生産が間に合わないため、長砲身(48口径)7.5センチ砲に換装されたIV号戦車(戦車連隊の第二大隊装備)は生産を続行、最後までパンター(第一大隊装備)と併行生産された。
連合軍の反応
東部戦線

戦場に大挙出現したパンターへのソ連軍の反応は素早く、クルスクの戦いで損傷し、戦場に放棄された31両のパンターは徹底調査された。結果、砲撃で撃破されたものはこのうちの22両で、傾斜前面装甲を撃ち抜けた砲弾は一発も無く、一方機関部付近に被弾すると容易に炎上するなどの弱点も発見している。またこの中でT-34によって撃破されたのはたった1両であった。しかし1943年後半でも赤軍戦車部隊は、1941年と同様76.2mm砲装備のT-34が主力のままだった。この砲はパンター前面装甲には力不足で、撃破するには側面に廻りこまねばならなかったが、パンターの主砲はどの方向からでも遠距離からT-34を撃破できた。そこで85mm砲と三人乗り大型砲塔装備のT-34-85が開発された。T-34車台を使用したSU-85SU-100など新型自走砲も投入された。1944年半ばまでには赤軍はパンターよりはるかに多くのT-34-85を前線投入していた。

1944年3月23日のドイツ軍によるドイツ戦車とソ連T-34-85およびIS-2(122mm砲装備)の比較では、パンターは正面戦闘ではT-34-85よりはるかに優れ(パンターG型は2000mでT-34-85の前面装甲を貫くが、T-34-85はようやく500mでパンターG型の砲塔前面装甲を貫通する)、側面と背面ではほぼ互角で、IS-2に対しては正面では互角だが、側面と背面では劣るとされた。1943年と44年にはパンターはIS-2を除くあらゆる連合軍戦車を2000m遠方から撃破でき、ベテラン乗員のパンターは1000m以内で90%以上の命中率を達成した。
西部戦線バルジの戦いでアメリカ軍に撃破されたパンター

パンターは1944年初めのアンツィオの戦闘でようやく初めてアメリカ軍イギリス軍の前に姿を現したが、その時は少数だった。その時にはアメリカ軍は既にソ連軍からパンターの詳細な情報を入手しており、アメリカ陸軍情報部が発行していたアメリカ兵向けの戦訓広報誌『Intelligence Bulletin』において、詳細なスペックと簡単な分析を記述している。そこでは「装甲は厚いが高速で、ドイツ軍が高く評価してきたM4シャーマン戦車と同じ速度である」「ティーガーより軽量で速度と操縦性に優れる」としながらも、ソ連軍からの情報として「覗き穴、ペリスコープ、砲塔と砲盾の基部は小銃や機関銃の射撃でも有効である」「54mm以上の口径の砲であれば、約800mの距離でも砲塔には有効である」「大口径砲や自走砲は、通常の距離であればパンターを効果的な射撃で戦力外にできる」「側面と後面装甲は口径45mm以上の徹甲弾で貫通できる」「焼夷弾はガソリンタンクだけでなく、運転席すぐ後ろの弾薬庫に対しても有効」と記述されている。しかし、まとめとして「パンターは手ごわい兵器であり、ドイツ軍の紛れもない強みとなる」と警戒を呼び掛けている[4]

パンターのライバルは、連合軍で配備が進んでいたM4シャーマン戦車となった。アメリカ軍はパンターの詳細な情報を持っていたものの、イタリア戦線などで交戦頻度が稀であったことから、ティーガー同様、部隊に少数配備される重戦車と誤った認識をしており、既に決定していた76.2o砲型の製造以外には対策をとらなかった[5]。これは、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲搭載のシャーマン ファイアフライの開発を行っていたイギリス軍とは対照的であった[6]。そのためノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、想定以上の数のパンターやティーガーと交戦したM4の75o砲の非力さが明らかになった[7]。また、東部戦線で経験を積んだドイツの戦車エースたちの活躍は目覚ましく、本車に搭乗したエースとしては、第2SS装甲師団エルンスト・バルクマンSS曹長が有名である。特に有名な活躍は、1944年7月27日にフランスサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる[8]。のちにこの曲がり角は『バルクマンコーナー』と呼ばれ有名になる[9]。その翌日も多数のM4を撃破し、2日間で15両にもなったといい、7月30日には乗車を撃破されるも脱出成功している。同年12月、古いD型で「バルジの戦い」に参加したバルクマンは夜間、敵戦車の列に紛れこみハッチから漏れる車内灯の色で識別し攻撃、M4戦車数両を撃破している[10]

このようなパンターの活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが[11]、そのような事実はなく、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガ(英語版)の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではないかとの指摘もある[12]

個別の攻撃性能で優位性を比較した場合、パンターの戦車砲は500mの距離で垂直鋼板に168oの貫通力があり、M4シャーマン正面装甲を貫通可能であった。一方M4シャーマンの M1 76mm戦車砲は口径こそパンターの戦車砲と変わらなかったが、同じ距離で116mmの貫通力しかなく、パンター正面装甲貫通は不可能でパンターに優位性があった。しかし正面でも砲塔の防盾は貫通でき、また側面装甲であれば1,800mの距離からでも十分貫通できた。またアメリカ軍は、パンターやティーガー対策として、新型高速徹甲弾の生産を強化していた。M4シャーマンの71発の砲弾積載量のうち、高速徹甲弾は1?2発しか割り当てられず充分な砲弾数ではなかったが、500mで208oの垂直鋼板貫通力を示し、パンターの戦車砲の貫通力を上回る[13]。ドイツ軍は自軍戦車の特徴である、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、想定通りの距離での戦闘とはならず[14]、実際にはアメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対し、ドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mと、大差はなかった[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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