プロジェクトはポピュラー音楽界に一大チャリティー・ブームを巻き起こした。カナダからは「ティアーズ・アー・ノット・イナフ」、ドイツからは「ナクト・イム・ヴィント (Nackt im Wind)」、ヘヴィメタル界では「スターズ」などなど、数多くのプロジェクトとチャリティー・ソングが生まれる。ブームは同年夏に開催されたチャリティー・コンサート「ライブ・エイド」で最高潮を迎えた。 レコーディングは、「ウィ・アー・ザ・ワールド」参加者も含め多くのスターが集まる第12回アメリカン・ミュージック・アワードの終了直後、1985年1月28日の夜、当時の世界のポップス界を代表する45人が、ハリウッドのA&Mスタジオに集結してレコーディングされた。そのためにマイケルは授賞式を欠席し、リッチーは司会終了後にスタジオに来た。 ところが、そのせいか出演者達の間には当初、緊張感が少なく、この曲の持つ重要性を忘れ始めていた。レコーディングの前にライヴエイドの発起人であるボブ・ゲルドフが、アフリカで起こっている惨状を出演者達に語ったことで、話が終わる頃にミュージシャン達の目の色が変わり、場が引き締まったという。 その後のリハーサルで、ゲルドフは「ブルース・スプリングスティーンやダリル・ホールの真剣さに圧倒された」と語っている。
レコーディング
逸話
ヒューイ・ルイスは、スケジュールの都合でレコーディングに参加できなかったプリンスの代役として呼ばれた。
ボブ・ディラン、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、ジェームス・イングラムのソロパートはオーヴァーダビングである。
クリストファー・クロスは「キム・カーンズは呼ばれて自分は呼ばれなかった」と不満を漏らしている。ちなみにクリストファーもキムも相前後してグラミー賞を受賞しているが、その後のクリストファーは目立ったヒット曲に恵まれなかった。一方、キムはケニー・ロジャース、ジェームス・イングラム、バーブラ・ストライサンドなどとデュオを組むなど幅広く活動していた。
トールマンF1チームの1985年式マシン、TG185に、「USA FOR AFRICA」のロゴがシーズン通しで、フロントウィングおよびサイドポンツーン下部に掲出されていた。
関連項目
A&Mスタジオ
バナナ・ボート
ポップスが最高に輝いた夜
脚注[脚注の使い方]^ a b Sutton, Michael. USA for Africa 。Biography & History
^ 「We Are The World」に貢献 大物アーティストのマネージャー、ケン・クラゲンが死去 - amass
表
話
編
歴
USAフォー・アフリカ
メンバー
ジェームス・イングラム - シーラ・E - ダン・エイクロイド - ジェフリー・オズボーン - キム・カーンズ - ボブ・ゲルドフ - ポール・サイモン - ウェイロン・ジェニングス - ジャッキー・ジャクソン - ティト・ジャクソン - マーロン・ジャクソン - マイケル・ジャクソン - ラトーヤ・ジャクソン - ランディ・ジャクソン - アル・ジャロウ - ビリー・ジョエル - クインシー・ジョーンズ - ブルース・スプリングスティーン - ティナ・ターナー - ダリル・ホール&ジョン・オーツ - レイ・チャールズ - ボブ・ディラン - ウィリー・ネルソン - リンジー・バッキンガム - ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース - ハリー・ベラフォンテ - スティーヴ・ペリー - ポインター・シスターズ - ベット・ミドラー - ライオネル・リッチー - シンディ・ローパー - ケニー・ロギンス - ケニー・ロジャース - ダイアナ・ロス - スモーキー・ロビンソン - ディオンヌ・ワーウィック - スティーヴィー・ワンダー
シングル
ウィ・アー・ザ・ワールド
アルバム
ウィ・アー・ザ・ワールド
ビデオ
ウィ・アー・ザ・ワールド:ザ・ビデオ・イベント - ウィ・アー・ザ・ワールド - ウィ・アー・ザ・ワールド~ザ・ストーリー・ビハインド・ザ・ソング | ポップスが最高に輝いた夜
関連項目
バンド・エイド - ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?