おくだ たみお
奥田民生
別名OT(オーティー)
生誕 (1965-05-12) 1965年5月12日(59歳)
出身地 日本広島県広島市
担当楽器ボーカル・ギター・ドラム・ベース・カウベル・タンバリン・キーボード
活動期間1987年 -
2度の勧誘を経てユニコーンに加入。自称「二期メンバー」。
2015年、5月に生誕50年記念ライブ「OT50祭 “もみじまんごじゅう”」公演を開催。
手島いさむ:Gt.&Vo.
てしま いさむ
手島いさむ
出生名手島勇
別名TESSY(テッシー)、3623(サムニーサン)、7おじぃ
生誕 (1963-08-27) 1963年8月27日(60歳)
出身地 日本愛知県生まれ広島県育ち
担当楽器ギター・ボーカル・パーカッション・キーボード
活動期間1987年 -
「ユニコーン」創始者であり名付け親。
2013年、生誕50周年として、「手島いさむ50祭 ワシモ半世紀」が日本武道館で開催された。
朝日放送「相席食堂」にて準レギュラー扱いとなり出演時被っていた帽子にちなんで「7おじぃ」の愛称で呼ばれる。
川西幸一:Dr.&Vo.
かわにし こういち
川西幸一
別名西川幸一、西川くん
生誕 (1959-10-20) 1959年10月20日(64歳)
出身地 日本広島県呉市
担当楽器ドラム・ボーカル・ラップ
活動期間1987年 -
初代バンドリーダー[6]。
奥田の「本名では君呼びしにくい」との理由から、89年頃から93年の脱退まで、西川幸一の名で活動、当時の愛称は西川くん。
1993年、アルバム「スプリングマン」レコーディング中に、音楽的姿勢の相違を理由に脱退。2009年、ユニコーン再結成発表にてバンドメンバーに復帰。
2015年7月、ラクナ梗塞と診断され、夏に出演予定だったライブをキャンセル。10月2日、横浜市のパシフィコ横浜で行われた「ユニコーン EBI50祭 “海老乃大漁祭”」で復帰。
※メンバー2名以上で構成されるユニット
旧メンバー
向井美音里(むかい みどり、1965年4月27日 - 、広島県出身)キーボード担当。1988年、2度目のツアー終了後、健康上の理由で脱退。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}89年、EBIと結婚し2児の母となるが、98年に離婚。02年、音楽業界から離れる。[要出典]
サポートメンバー
古田たかし(ふるた たかし、1958年7月6日 - 、東京都出身。当時・Dr.StrangeLoveメンバー)ドラム担当。川西脱退後、1993年のツアー「4946」にてサポートを務める。ユニコーン解散後、奥田のソロ活動時のサポートメンバーにもDr.StrangeLoveで参加することになる。2009年の再始動ライブ「蘇える勤労」にゲスト出演し、ツインドラムで川西と共演した。
橘あつや(SPARKS GO GO)
小畑ポンプ(すかんち)
メンバーの変遷
バンド内ユニット・企画
「民生くんとアベくん」 - 奥田・阿部(解散まで、 フジテレビ系『ダウンタウンのごっつええ感じ』にレギュラー出演)
「しのコーン」 - 手島・EBI、篠原ともえ(1997年に結成され、ツアーをまわった)
「電大」 - 川西・手島・EBI(2012年に結成された広島電機大学出身の3人によるバンド)
「阿部民バンド」 - 奥田・阿部、八熊慎一(SPARKS GO GO)、YO-KING・桜井秀俊(真心ブラザーズ)、木内健(2013年「ワシモ半世紀」に出演したユニット)
「なにわンダーたこ虹バンド」 - 川西・手島、上野一郎、TACOS NAOMI(たこやきレインボーのバックバンド)
「ABEDON AND THE RINGSIDE」 - ABEDON・奥田、八熊慎一(SPARKS GO GO)、斎藤有太、木内健(2016年に結成されたユニット)
「むねきんトリオ」 - 奥田・ABEDON、斎藤有太(氣志團 presents企画「ア・ベストテン」から派生したアイドルユニット)
略歴
結成から一時解散まで
1986年3月、川西、手島が中心となって、「ユニコーン」を結成。手島が、ライブハウスの演奏で目をつけていたEBI(堀内)を勧誘し、川西が旧知の向井を誘って加入。2度の勧誘を経て最後に奥田が加入。12月、CBSソニーオーディション決勝にて合格。
1987年10月21日、1stアルバム『BOOM』でデビュー。
1988年1月、向井が健康上の理由から脱退。以後のレコーディングとライヴには、笹路正徳、阿部義晴がサポートメンバーとして参加。5月、阿部が正式加入。
1989年7月10日、初の日本武道館でのライヴを行う。
1990年、4thアルバム『ケダモノの嵐』が第32回日本レコード大賞アルバム賞を受賞する。
1991年8月23日、 EBIがアルバム『MUSEE』でソロデビュー。10月22日、ユニコーンでは最長のツアー「舞監なき戦い」開始(1992年3月19日まで)。
1992年8月から10月にかけて、EBI、奥田、阿部、西川、手島の順で5人がそれぞれソロシングルをリリース。
1993年1月21日、前年のツアー中からメンバーと自分の音楽性のずれに悩んだ結果の決断、として川西が脱退をファンクラブ号外にて発表。同年2月6日付で正式脱退。当時制作中だったアルバム『SPRINGMAN』のレコーディングには河合マイケルが、アルバムを受けたコンサートツアー「UNICORN TOUR 1993 “4946”」には古田たかしがサポートメンバーとして参加。
1993年9月21日、ニッポン放送「オールナイトニッポン」にて解散を発表。同番組内にて奥田は解散理由を『SPRINGMAN』制作で達成感があり、同バンドで次にやることが思い浮かばない、スポーツ新聞に書かれているように「力出し切った」ためであると述べた。 なお後年、奥田は2008年に後述する再結成決定の席[7]で「あの時解散したのは(メンバー間で)いざこざになるのが嫌だったから」、阿部は2021年に「僕らは実験をやろうとしたけど、若くてお互いの作品に抵抗感を感じることもあった。それが表に出てしまうこともあったから解散という結果になった」[8]と、川西が脱退時に挙げた理由が、最終的に解散に繋がったとの見解を示している。
活動再開について
2002年、結成15年を記念して刊行された書籍『GOLDIES but OLDIES 1987-1993』のインタビュー企画に5名がそれぞれ登場。再結成については手島は前向き、川西と阿部は後ろ向きなコメント[9]を残す。
2005年10月、雑誌『@BOOING』に掲載されていた、吉田豪によるバンドブーム時代のミュージシャンへのインタビュー[10]に、阿部が登場してユニコーン時代を回想。再結成は「(してもいいと思うが)今やりたいことかといえばそうではない」「誰かが声を掛けないとやらないと思うよ。たぶん俺は声掛けないけどね」と、2002年に比べてやや軟化したコメントを残す。
2006年9月、 阿部、誕生40周年記念ツアー「阿部義晴音楽祭?仲間とノリノリ40祭?」を開催し、ゲストとして奥田民生と、川西が在籍していたジェット機が登場。アンコールセッションでは奥田・川西・阿部らで「スターな男」などユニコーンの楽曲を披露。
2007年7月15日、「Jメン」の通称で知られるユニコーン時代からのスタッフの結婚パーティーの余興で、仕事のため披露宴を欠席した川西を除いたメンバー4人が、主賓の「ユニコーンがいい」との希望で揃って数曲を演奏。川西に代わってドラムを担当したのは、披露宴に出席していた古田たかし。EBIは「久しぶりに集まって、とても楽しくできた」と述べている[11]。この時点で阿部は、イベントでの共演などから「今現在の自分たちでやるユニコーンで曲をつくるのはどうか?」[12]という興味を感じるなど心境が変化しており、再結成に動き始める。
11月、阿部が川西に「今の5人で曲を作るのに興味がある」[11][13]と相談をもちかける。