UFJ銀行
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しかし、両行の交渉が長引く中で、1999年8月、第一勧業銀行富士銀行日本興業銀行による3行の経営統合(みずほフィナンシャルグループの設置)、続く同年10月には三井財閥系のさくら銀行、住友財閥系の住友銀行の合併(三井住友銀行)が発表され、企業グループの枠を超え、急速に都銀上位行のメガバンクへの再編が進む。

こうした金融再編に取り残されたのは、拓銀破綻後は都銀下位行に甘んじた大和銀行と、強烈な行風が倦厭された三和銀行であった[注釈 4]

再編に乗り遅れた三和銀行は、首脳陣が同じ名古屋大学出身[注釈 5]であった「東海あさひ銀行」連合に急接近する。東海あさひは、営業エリアが首都圏東海地方に集中して規模的に中途半端となっていた為、地方銀行の他、大阪を地盤とする大和銀行の参加を呼び掛けた。

しかし、2000年2月に名古屋市内で室町鐘緒三和銀行頭取と西垣覚東海銀行会長の会食を経て、大和銀行ではなく三和銀行を加えた「持株会社設立による経営統合」を2000年3月に発表した。2000年4月より3行間でのATM利用手数料を自行扱いとする施策の実施や、同年中に三和銀行系列の金融各社で構成される「フィナンシャルワン」へ、東海・あさひ両行の参入検討を図った。

その後、三和銀行は経営の迅速化を名目に三行を合併させて三和東海あさひ銀行の発足構想を主張したため、経営主導権を三和に握られることを嫌ったあさひ銀行が2000年6月に構想より離脱[注釈 6]。結局、三和銀行・東海銀行の合併という形で決着した。

この経営統合から離脱したあさひ銀行は、2001年には不良債権処理による損失から公的資金注入の優先株に対する中間配当が困難となり、経営危機が表面化する。一方、東海あさひへの経営統合参加を当初有力視されるも、三和の参入で破談となった大和銀行は、同年12月に親密地銀と金融持株会社大和銀ホールディングスを設立した。2002年3月にあさひ銀行がその持株会社の傘下に入る形で経営統合を行った。両行は2003年5月のりそなショック発生を予見出来ぬまま、前途多難な船出を強いられた。
UFJグループ発足

2001年4月2日に上場企業であった 三和銀行東海銀行東洋信託銀行株式を、新設した金融持株会社UFJホールディングス株式移転させ、経営統合を行った。ここからUFJ銀行の発足までの間は、UFJホールディングスの傘下に三和・東海・東洋信託銀行が入っていた[注釈 7]。また、この期間中に三和銀行・東海銀行はシステム統合の準備のため、2002年1月まで休日と年末年始を中心にシステムを休止。ハッピーマンデー制度による成人の日明けの2002年1月15日に合併し、UFJ銀行が発足した。
合併時のシステム統合

三和・東海が合併した2002年(平成14年)1月15日に、両行の勘定系システム(三和が日立製作所・東海が日本IBM)を三和銀行系のシステムに統合している。両行とも日立製作所を窓口端末のベンダとしていたことから実現できた。通常、銀行の合併に際しては当事銀行間の基幹システムをリレー方式で接続し、1 - 2年かけて統合するという流れを採用しているが、UFJ銀行は合併のシナジー効果を顧客にいち早く提供する主旨が有った。

これによって顧客は、三和・東海の別なく、統一された商品・サービスを享受出来たが、同月23日から同月末にかけて口座自動振替システムの障害が発生。口座自動振替の二重引落が約18万件、引き落としが遅延されたり、引き落としがされないトラブルが175万件生じた。後の同年4月に発生したみずほ銀行のシステムトラブルと比較すれば、小規模なトラブルだったが、前例とされたUFJ銀行のトラブルを教訓にせず、合併とシステム稼働を見切り発車させた、みずほフィナンシャルグループは非難されることになる。
不良債権処理の遅れ

三和銀行時代から引き継がれた体育会系的営業スタイルの伝統、他行に比べ積極的な貸し出しの姿勢によって、2002年時点の4大メガバンクのなかで三井住友銀行に次ぐ収益力の高さを誇っていた。反面、三和・東海はそれぞれ近畿地方東海地方を地盤とする銀行であり、首都圏における基盤は他のメガバンクほど強くなかった。

また、財務体質は劣悪で経営再建問題で揺れるダイエーニチメン・日商岩井(現:双日)、日本信販(現:三菱UFJニコス)、アプラス大京国際興業国際自動車などみどり会構成企業や三和銀行親密先および、東海銀行のフジタ・藤和不動産(現:三菱地所レジデンス)・トーメンに対しての過剰な貸付や焦げ付き、それらに対する貸倒引当損失不足が当初から懸念されており、不良債権比率はメガバンクでは最も高いとされた。結果的に業務で利益が上がっていても損失引き当ての強化及び不良債権の処理に伴い利益をはるかに上回る巨額の赤字を計上する状態で、UFJ銀行は発足から消滅までの3年間に黒字を計上することはなかった。

特にダイエー向けの債権はUFJ銀行の発足前は東海銀行、三和銀行、富士銀行、住友銀行がそれぞれ5000億円を超える融資額を横並びで貸し付けていたが、合併によって融資額が1兆円を超えて突出し、結果的にメインバンクとしての責任を背負い込むと共にその処理が経営の足を大きく引っ張ることになった。

2002年9月、金融担当大臣(経済財政担当大臣兼任)に竹中平蔵が就任し、同年10月には大手行に対して2005年3月末までに不良債権残高を半減するように要請する「金融再生プログラム」が発表された。これを受け、みずほFGが1兆円の増資を実現し、三井住友銀行が破格の条件でゴールドマン・サックスに優先株を発行し、さらにわかしお銀行との逆さ合併により含み益を吐き出すなど、他のメガバンクは形振り構わず資本増強による不良債権処理を進めた。しかし、全国銀行協会会長だった寺西正司UFJ銀行頭取は「銀行はルールの中で経営されている。サッカーをしていたのに、突然、アメリカンフットボールだといわれても困る。」と反発した。この発言はのちに辿るUFJグループの行末を考えると、当時のUFJグループの経営陣にとっては非常に厳しい条件を突きつけられていたことを物語っている。

ただ、必ずしもまったくの無為無策というわけではなく、2003年3月、メリルリンチから1200億円の増資を行い資本強化、また、その後も当時5万円額面換算で10万円を割っていたUFJホールディングスの株式をモナコの投信会社に引き受けて保有比率5%の筆頭株主になってもらうなどの株価対策や資産の売却、劣後債などによる資本増強を行った。しかし、あさひ銀行が合流した大和銀ホールディングスは2003年3月期決算の会計上、自己資本比率の大幅な毀損が生じて「りそなショック」へと陥り、自主経営を事実上断念する事態となった。

結果、日本の株式市場はりそなショック後に株価は上昇に転じ、UFJHD株は結果的に株価上昇の先導役となって株安で抱えていた銀行の含み損はかなり解消した。ただし、金融庁から業務改善命令を受けるなど経営の視野や選択肢が限られる状況であり現金資産が増えていたわけではなかった。業務改善命令に対して約束した利益は1300億円程度であった。
派閥抗争

当時のUFJ銀行内は三和銀行以来の派閥抗争に終始し、積極的な資本増強策を行っていなかった。UFJ銀行は対等合併とは言われながらも、実際の行内の主導権は規模が旧:東海の1.6倍あった旧:三和が主導権を握っていた。三和行員は、“緑化作戦”あるいは“緑一色作戦”(コーポレートカラーが東海の赤色に対し三和が色であることによる)と称して東海行員を放逐し[4]、愛知県を中心に東海店舗を30店近く統廃合していた。また、前述の大口融資先には、こうした人事抗争に敗れた有力OBを天下りさせた経緯もあり、銀行側が事業再生に主体的にかかわることもできず、なれ合い関係が深まっていった。こうした動きは、元々名古屋財界のメインバンクとして機能していた地元銀行を(在阪銀行であった三和により)事実上冷遇した事となり、名古屋財界から顰蹙を買ってしまう。結果、東海3県における預貸シェアは低下し、多くの地元企業が地方銀行、信用金庫などに融資元を変更するに至り、これによる海外進出への弊害も発生した。皮肉にもこの一件により、住友銀行とトヨタとの因縁により手薄となっていた東海地方への三井住友銀行の営業拡大を許してしまうことや[5]、東京三菱銀行との合併後に、元々東海銀行系だったセントラルファイナンス三井住友フィナンシャルグループに移籍するなどの遠因となった。
金融庁との対立と特別検査


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