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出典検索?: "UA" 歌手
UA
生誕 (1972-03-11) 1972年3月11日(52歳)
出身地 日本・大阪府
学歴大阪府立北千里高等学校卒業
嵯峨美術短期大学卒業
ジャンルR&B、ロック、ジャズ、エレクトロ
職業歌手
担当楽器ボーカル
活動期間1995年 -
レーベルSPEEDSTAR RECORDS
事務所KA
共同作業者AJICO
フィッシュマンズ
菊地成孔
公式サイト ⇒http://uaua.jp/
UA(ウーア、1972年〈昭和47年〉3月11日 - )は、大阪府出身[注 1]の日本の女性歌手[1][2][3][4]。4児の母で、俳優の村上虹郎は長男[5][6]。カナダ在住[7]。 「UA」はスワヒリ語で、”花”と”殺す”という二つの相反するような意味を持つこと、またその発音が日本語と近いこと、記号的なスペリングに惹かれ、自ら選んだ。後に、”殺す”の意味は必要ないと改め、現在は"花”の意味のみとしている。 ソウル、ジャズ、レゲエ、ダブ、エレクトロ、民族音楽など多種多様な音楽を取り込み、ジャンルにとらわれない幅広いナンバーをものにする憂いと野性味を兼ね備えたボーカルと個性的なルックスでデビュー当時から注目を集める[1][2][3][4][8]。 浅井健一と結成したバンドAJICOのボーカリスト、NHK教育テレビ番組(現:Eテレ)『ドレミノテレビ』で童謡などをオリジナルのアレンジで歌う歌のおねえさん“ううあ”として活動したほか、映画『水の女』『大日本人』にも出演し、女優としても活動している[1][2][3]。 学生時代はイギリスの映画監督デレク・ジャーマンをはじめオルタナティブな作品に魅せられて自分でも8ミリフィルムで映像作品を作っており、映像の仕事に就きたいと考えて専門学校で学んだこともあった[9]。 2005年、33歳で神奈川県で田舎暮らしを始める。2006年に離婚し、2年間農作業をしながら、米、野菜作りを勉強。36歳の時に10歳年下の一般男性と再婚し、沖縄県北部の山間で農業中心の生活を送った。2015年頃からは、夫、幼い3人の子どもたちと一緒に南西部にあるカナダの離島に移住し、東京と行き来する生活をしている[7]。 幼少期に、70?80年代の歌謡曲や、童謡のレコードに魅了される。 小・中学生時期、イエロー・マジック・オーケストラ, 日本のパンクミュージックを聴き始める。また、吹田市立千里第一小学校の音楽授業で学んだドイツの作曲家カール・オルフの器楽曲に縦笛、木琴で親しむ。 高校生時期、クラブミュージックからの影響で、UK、USを始め、ワールドワイドに音楽を聴き始め、レコードを集め始める。 歌い手として、 ジャニス・ジョップリンやアレサ・フランクリンといった個性的なシンガーに影響を受け、歌手になることを決意[8]。最も影響を受けた洋楽女性アーティストはビョーク[10][11]。 6thシングルにパティ・スミスのカバー曲が収録されているが、本人からチベタンボウル(チベット仏教の勤行で使う鉢)を貰っている[12]。 美術系短大でグラフィックデザインを学び、一度はデザイン系の会社に就職した。しかし、学生時代から興味のあった映像の仕事が諦めきれず、学び直すことを決意した。学資を稼ごうと大阪の新地にあるジャズクラブでアルバイトを始める[注 2] 。当初は歌うことはなかったが徐々に生伴奏に合わせ、歌うようになる。その後、東京で1年間映像の勉強をするが、再び大阪に戻りクラブで働き始める。そこで歌っていたところをスカウトされ、歌手デビューの道が拓ける[9]。 1995年6月、藤原ヒロシ、朝本浩文(ex.MUTE BEAT)のプロデュースのもと、ビクターのSPEEDSTAR RECORDSレーベルよりシングル「HORIZON」でソロシンガーとしてデビューする。 1996年6月に発売された4thシングル「情熱」が大ヒットし、全国的に認知度が高まる[4]。10月、朝本浩文、大沢伸一(MONDO GROSSO)、青柳拓次(LITTLE CREATURES)、竹村延和、cobaなどが手掛けた1stアルバム『11』をリリース[13]。クラブミュージックをベースに民族音楽のテイストも盛り込まれたサウンドは80万枚を超える大ヒットを記録する[1][3][7]。
人物
音楽
来歴
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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