U505_(潜水艦)
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艦歴
計画1939年9月25日[1]
起工1940年6月12日[1]
進水1941年5月24日[1]
就役1941年8月26日[1]
その後1944年6月4日、南大西洋で米海軍により捕獲[2]。1954年9月博物館船 [2]
除籍
性能諸元
排水量水上1,120、水中1,232t
全長76.80m、耐圧殻長58.70m
全幅6.90m、耐圧殻幅4.40m
吃水4.70m
機関水上:ディーゼル MAN M9V40/46過給機付き9気筒 2基
4,400hp(3,281kW)2軸
速力水上:19.0kt(35.0km/h)
水中:7.3kt(13.5km/h)
航続距離水上:25,620海里(47,450km)(10ノットで)
水中:117海里(217km)(4ノットで)
燃料
乗員48-56名
兵装53.3cm魚雷発射管x6(艦首4、艦尾2 搭載魚雷22本)
45口径105mm単装砲1門(弾薬110発)
対空機関砲
備考試験潜航深度:230m

U505は第二次世界大戦中に建造されたドイツ海軍IXC潜水艦の1隻である。1944年6月4日にアメリカ海軍第22.3任務群に捕獲され、押収された暗号表やその他の機密資料は連合国軍の暗号解読作業の助けとなった。

1名を除いて「U505」の乗組員全員がアメリカの任務群により救助され、艦は秘密裏にバミューダ諸島へ曳航されていった。米海軍はドイツ側へこの出来事が露見することを防ぐために潜水艦捕獲の事実を極秘扱いとし、米軍の捕虜として抑留された艦の乗組員は、国際赤十字社による接見も禁じられた。

1954年に「U505」は、イリノイ州シカゴシカゴ科学産業博物館へ寄贈され、現在は博物館船となっている。

「U505」は、第二次世界大戦中に連合国軍により捕獲された6隻のUボートの中の1隻であり、博物館船として現存する4隻の第二次世界大戦時のドイツの大型潜水艦の中の1隻である。現存する唯一のIXC型潜水艦でもある。
捕獲に至るまでの艦歴

「U505」は1940年6月12日にハンブルクのドイチェ・ヴェルフト社(Deutsche Werft AG)で起工され、1941年5月25日に進水。8月26日にアクセル=オーラフ・レーヴェ(Axel-Olaf Loewe)大尉指揮の下で就役した。1942年9月6日にレーヴェはペーター・@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ツェッヘ[要検証 – ノート](Peter Zschech)大尉へ指揮を譲り、1943年10月24日からパウル・マイヤー(Paul Meyer)中尉が約2週間指揮を執り、11月8日にハラルト・ランゲ(Harald Lange)中尉が引き継いだ。その後ランゲは1944年6月4日に捕獲されるまで艦長を務めた[2]

「U505」は、12回の哨戒を実施し、合計44,962トンに上る8隻の船舶を撃沈した。この内訳は、3隻が米国船、2隻が英国船、ノルウェー船、オランダ船、コロンビア船が各1隻であった[2]
第1回哨戒

1941年8月26日から1942年1月31日までの第4潜水隊群での訓練演習に続いて、「U505」は2月1日から第1線のUボートとして第2潜水隊群に配属されたが、1月19日にキールを出港した時(公式にはまだ訓練中であった)から最初の哨戒は始まっていた。16日間に渡りブリテン諸島の周りを哨戒し、2月1日にロリアンに入港した。「U505」は、この最初の哨戒で1隻の敵船舶も発見せず、攻撃もしなかった[3]
第2回哨戒

「U505」は、1942年2月11日に第2回哨戒へ向けてロリアンを出港した。86日間でアフリカの西海岸を南下し、そこで初の戦果を挙げた。1カ月以内に「U505」は英国船「Benmohr」、ノルウェー船「Sydhav」、米国船「West Irmo」とオランダ船「Alphacca」の合計25,041トンを撃沈した。4月18日に中部大西洋で連合国軍機から攻撃を受けたが、ほとんど被害は無かった[4]
第3回哨戒

「U505」は1942年6月7日に第3回哨戒へ向けて母港のロリアンを出港した。この哨戒期間中に「U505」はカリブ海へ赴き、そこで米国船「Sea Thrush」、「Thomas McKean」とコロンビア船「Urious」を撃沈し、一度も攻撃を受けることなく80日間の哨戒任務を終えて8月25日にロリアンに帰港した[5]

この哨戒任務後にローヴェ大尉が病気になり陸上勤務に配置転換されたため、ツェッヘ大尉が「U505」艦長に就任した。
第4回哨戒

「U505」の第4回哨戒には南米北部の沿岸での哨戒が含まれていた。1942年10月4日にロリアンを出港し、11月7日にベネズエラ沖で英船「Ocean Justice」を沈めた。11月10日にトリニダード島近くで「U505」は、低空爆撃を仕掛けてきた英空軍第53飛行隊(No. 53 Squadron)所属のロッキード ハドソン爆撃機の奇襲を受け、投下された250-ポンド (110 kg)爆弾の1発は着水直前に甲板の真上で炸裂した。この爆発により司令塔内部にいた当直士官が死亡、もう1名が負傷し、対空機関砲が甲板から引きちぎられ、艦の耐圧殻に甚大な損傷を被った。ハドソン機の方は爆弾の炸裂による破片で損傷し、「U505」近くの洋上に墜落して搭乗員は死亡した。排水ポンプは作動せず、機関室の数箇所から浸水していた。ツェッヘ艦長は乗組員に艦を放棄するように命じたが、機関員たち(Otto Fricke曹長率いる)は艦の修復を試みるように主張し、洋上でのほぼ2週間に渡る修理により艦を潜水可能な状態にすることができた。補給潜水艦「ミルヒクー」(Milchkuh、「乳牛」の意)の「U462」へ負傷した当直士官を移乗させるとU-505は出力を絞りながらのろのろとロリアンへの帰路につき、「最も甚大な損傷を受けて帰還したUボート」という栄誉を賜った[6][7]
中止される哨戒

ロリアンでの6カ月間の修理後、「U505」は5回目の哨戒へ出発した。1943年7月1日にロリアンを出港したが、3隻の英海軍駆逐艦に30時間以上も付きまとわれて僅か13日後に戻ってきた。この遭遇で「U505」はそれほど酷い損傷は負っていなかったが、修理のためにフランスへ戻らねばならなかった[8]。「U505」の続く4回の哨戒は、機器の故障とフランスのレジスタンス(French Resistance)のために働くフランス人造船所従業員のサボタージュにより全て洋上に出て僅か数日で中止しなければならなかった[9][10][11][12]。発見された破壊工作には、電気系統やレーダー装置へのサボタージュ、ディーゼル燃料タンクへの故意の穴あけや修理を担当したフランス人組立工による不完全な溶接があった。このようなことが多々発生したために「U505」はロリアンの基地中で冗談のネタにされるようになった。ある哨戒中止から帰港すると「U505」の乗組員は自艦の係留位置に「U505の狩猟場」と書かれているのを発見した。数多くのUボートが沈んでいったこの時期に「U505」の艦長ツェッヘ大尉は他のUボート艦長が口にする冗談を耳にした。「常に帰還する艦長・・・その名はツェッヘ。」[13]
第10回哨戒 - ツェッヘの自殺

ロリアンで10カ月を過ごし「U505」は、不吉な運命と低下した士気を払拭するために10回目となる大西洋の哨戒へ出発したが、1943年10月24日にビスケー湾を通過してさほど行かないアゾレス諸島の東で英国の駆逐艦に発見され、潜航を強いられ、激しく長い爆雷攻撃に耐えねばならなくなった。

攻撃の苛烈さと自身の精神的不安定を証明するかのようにツェッヘ大尉は重圧に耐えかね、艦の司令区画の中の乗組員の眼前で自らの頭を打ち抜き自殺を図った。先任士官のパウル・マイヤーが素早く指揮を執り、続く攻撃を乗り越えて最小限の損傷で艦を港まで連れ戻した。機敏な機知を発揮したにもかかわらずマイヤーは、この当惑する事件について海軍当局から単に「全ての責を免じる」とされたのみで、何の受勲も無かった[14][15]。ツェッヘは、長時間の爆雷攻撃のストレスに起因して潜水中に自殺を図った歴史上で初の、そして指揮すべき艦が戦闘の只中にいる間に自殺を図った最初の(そして恐らく唯一の)潜水艦乗りとして記録された。これは幾人かの乗組員により議論されたことであるが、専門家はこの一連の不面目な失態により顕わとなった(そして助長させた)士気の低下とお粗末な指揮能力の影響が艦を放棄する前に「U505」を適切に自沈させ損なった乗組員の不手際の説明の助けになると推測した[6]
第11回哨戒


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