U2
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この初期3作品のディスクジャケットには、上半身裸の少年(ピーター・ローウェン[注 2])の写真が使用されている[注 3]
1984年 - 1989年

1984年、エチオピア飢餓救済を目指すバンド・エイドのチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(Do They Know It's Christmas)にボノとアダム・クレイトンが参加。その後、ボノはアフリカ諸国の経済的自立を支援する様々な国際的プロジェクトに関与している。

1984年10月に4枚目のアルバム『?』(The Unforgettable Fire)を発表。原題の『Unforgettable Fire』とは広島・長崎への原爆投下を生き抜いた被爆者達が描いた絵画のタイトルで、絵画を見たメンバーが感銘を受けて名づけられたものである。元ロキシー・ミュージックブライアン・イーノと弟子のダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えてサウンドも深化し、このコンビはその後も重要な共同作業者となる。シングル「プライド」(Pride (In The Name Of Love))はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)へのトリビュート・ソングであり、全英シングルチャート3位のヒットとなった[20]

1985年にはウェンブリー・スタジアムで行われたチャリティーイベント『ライヴエイド』に出演したが[19]、ボノが観客席に降りてしまい、3曲歌う予定が2曲で時間切れになってしまった。大舞台でアクシデントにメンバーは意気消沈したが、クイーンと並ぶ熱いパフォーマンスと称賛され[21]、世界中にテレビ中継されたことで大ブレイクするきっかけになった。

1987年3月に5枚目のアルバム『ヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)を発表。全英・全米チャート1位(全英アルバムチャート・Billboard 200)を獲得し[20][5]、イギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、世界各国でNo.1ヒットを記録した。シングルカットされた「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(With Or Without You)、「終わりなき旅」(I Still Haven't Found What I'm Looking For)はBillboard Hot 100で1位となった[5]。ライブツアーの規模も、アリーナクラスからスタジアムクラスに拡大した。また、ロビー・ロバートソンのソロ・アルバム『ロビー・ロバートソン』にメンバー全員が参加した。

1988年にはアメリカツアーのドキュメンタリー映画『魂の叫び』を公開し[注 4]、同名のアルバムも発表。ボブ・ディランB.B.キングヴァン・ダイク・パークスらが参加した。先行シングルの「ディザイアー」(Desire)は初の全英シングルチャート1位を獲得した[20]。1989年には2度目の日本公演が開催され、スペシャルゲストにB.B.キングを迎えて行われた。

この時期の音楽スタイルはアメリカのルーツ・ミュージックに傾倒し、ロックの源流であるブルースゴスペルソウルなどブラック・ミュージックの要素が積極的に取り入れられた。
1990年 - 1999年『ZOO TV TOUR』でのボノ(1992年)

東西ドイツ統一による影響のあるベルリンで制作されたアルバム『アクトン・ベイビー』(Achtung Baby)を1991年に発表。それまでのバンド・スタイルを大きく転換させ、ビッグ・ビートテクノなどの音楽ジャンルを取り入れた内容になっている。この点についてボノは「このアルバムは4人の男がヨシュア・トゥリーを切り倒している音だ」と述べている[19]。この音楽路線は、1993年発表の『ZOOROPA』(Zooropa)、1997年発表の『ポップ』(Pop)へと続いていく。1990年代以降ライブがより大規模になり、スタジアム・ロック・バンドとしての地位を構築していった。

1992年、グリーンピースセラフィールド抗議活動に参加し、放射線防護服を着てビートルズの『ヘルプ!』(Help!)のジャケットを真似るパフォーマンスを行った。

1993年に『ZOO TV TOUR JAPAN』と題して東京ドームで日本公演を開催。『ZOO TV TOUR』の最終公演となった。

1995年、映画『バットマン フォーエヴァー』(Batman Forever)に主題歌「ホールド・ミー、スリル・ミー、キス・ミー、キル・ミー」(Hold Me,Thrill Me,Kiss Me,Kill Me)を提供。また、ブライアン・イーノと「パッセンジャーズ」(Passengers)名義で制作したアルバム『パッセンジャーズ:オリジナル・サウンドトラックス1』(Original Soundtracks 1)を発表。オペラ歌手ルチアーノ・パヴァロッティがフィーチャーされており、ビル・カーター制作のドキュメンタリー番組『Miss Sarajevo』を元にサラエヴォ包囲について取り上げた「ミス・サラエボ」(Miss Sarajevo)はシングルカットされた。さらに、ボノとジ・エッジは映画『007 ゴールデンアイ』(007 GoldenEye)主題歌として「ゴールデンアイ」(GoldenEye)をティナ・ターナーに提供した。

1998年には『POPMART TOUR』で来日。3月6日にボノがテレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』に生出演し、およそ15分間に渡るインタビューに答えた。同年秋には初のベスト・アルバムザ・ベスト・オブU2 1980-1990』(The Best of 1980?1990)を発表する。日本ではフジテレビ系列のドラマ『眠れる森』挿入歌に「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」が使用された。
2000年 - 2011年『Elevation Tour』の様子(2001年)

2000年、ボノ原作でヴィム・ヴェンダース監督による映画『ミリオンダラー・ホテル』(The Million Dollar Hotel)が公開(日本公開は2001年)[注 5]サウンドトラック制作や主題歌「ザ・グラウンド・ビニース・ハー・フィート」(The Ground Beneath Her Feet)も提供した(サルマン・ラシュディ著の同名小説中の詩に曲をつけたもの)。同年秋にはブライアン・イーノとダニエル・ラノワを再びプロデューサーに迎えたアルバム『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』(All That You Can't Leave Behind)を発表。“原点回帰”とも言えるバンド感のあるサウンドになっており、世界的にヒットした。シングル「ビューティフル・デイ」(Beautiful Day)は、全英シングルチャート1位となった[20]。2001年には『Elevation Tour』を開催し、地元アイルランド公演はスレイン城で開催し8万人を集めた。

2002年、『第36回スーパーボウル』のハーフタイムショーに出演。2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件で犠牲者となった全員の氏名をスクリーンに映し、追悼の意を表した。同年秋にはベスト・アルバム『ザ・ベスト・オブU2 1990-2000』(The Best of 1990?2000)を発表。アルバムにも収録されている新曲「ザ・ハンズ・ザット・ビルト・アメリカ」(The Hands That Built America)が映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』(Gangs of New York)主題歌に起用された。

2003年9月から番組最終回となる2004年3月まで、テレビ朝日系報道番組『ニュースステーション』へ楽曲の使用許可を下し、オープニングテーマの「約束の地」(Where The Streets Have No Name)など、各コーナーでU2の曲が使用された。

2004年にはアルバム『原子爆弾解体新書?ハウ・トゥ・ディスマントル・アン・アトミック・ボム』(How To Dismantle An Atomic Bomb)を発表。プロデューサーにスティーブ・リリーホワイトが復帰した。先行シングルの「ヴァーティゴ」(Vertigo)はAppleiPod」CMソング起用され[注 6]、全英シングルチャート1位となった[20]


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