U2
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『U2 360° Tour』は、2011年のコンサート収益1位を記録し、“歴史上で最も成功したアーティストグループツアー”として認定されている[14]

なお、これまで1位となっていた記録も、同じくU2が1987年9月25日に〈Joshua Tree Tour〉のフィラデルフィア公演で樹立した86,145人となっており、U2自身が記録を塗り替えたこととなる。また、歴代動員記録の3位までをU2が独占しており、彼らの人気を改めて窺わせる結果となっている。

その他、ピンク・フロイドバックストリート・ボーイズが名を連ねる歴代5位までの観客動員記録リストは以下の通り。

〈米国での単独公演動員記録〉

1. U2:97,014人(2009年10月25日、カリフォルニア州ローズ・ボウル・スタジアム)

2. U2:86,145人(1987年9月25日、ペンシルヴァニア州ジョンF・ケネディ・スタジアム

3. U2:84,754人(2009年9月29日、メリーランド州フェデックスフィールド

4. PINK FLOYD:75,250人(1994年5月29日、オハイオ州オハイオ州立大学スタジアム)

5. BACKSTREET BOYS:73,337人(2000年2月19日、ジョージア州ジョージア・ドーム


米経済誌フォーブスが2011年6月に発表した「世界中で最も稼いでいるミュージシャン」では、1億9,500万ドル(日本円に換算すると約156億)になり第1位とされた[15]

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第22位にランクインしている[16]

ウォール・ストリート・ジャーナルの「史上最も人気のある100のロックバンド」にて16位。

トータル・アルバム・セールスは、1億7,000万枚超と言われている[17]
バンド名の由来

バンド名の由来については、アメリカ偵察機U-2」、ドイツ潜水艦II型Uボート」、「You too」(ファンへのシンパシーを表す)などの諸説があった。

彼らはアマチュア時代「FEEDBACK」や「THE HYPE」と名乗っていたが、アダムの知り合いのグラフィックデザイナーが考えた新バンド名案のひとつに「U2」があった[18]。特に意味はなく、ジ・エッジは「いろいろあった候補の中で一番マシなもの[18]」という程度で使ってみたが、時間が経つにつれどんどん好きになっていったという。ボノは「U2の魅力はその曖昧さにある。解釈の仕方は無限だろ[18]」と語っている。アダムは文字1個に数字1個だから、ポスターの中に大きく書くことができるし、宣伝文句の中にも滑り込ませやすいと指摘している。

ちなみに、1991年発表の『アクトン・ベイビー』収録曲の「ズー・ステーション」は実在するベルリン動物園駅(ドイツ語でZoologischer Garten)を指し、この駅の路線名は「U2(地下鉄2号線)」である。
メンバー


ボノ
(Bono)
ボーカルギター
1960年5月10日生まれジ・エッジ
(The Edge)
ギターピアノ
1961年8月8日生まれアダム・クレイトン
(Adam Clayton)
ベース
1960年3月13日生まれラリー・マレン・ジュニア
(Larry Mullen, Jr.)
ドラムスパーカッション
1961年10月31日生まれ

来歴
バンド結成からメジャーデビューまで

1976年アイルランドダブリンのマウント・テンプル高校の掲示板にラリー・マレン・ジュニアがバンドメンバー募集の貼り紙を出した[19]。これを知ったポール・ヒューソン(ボノ)、アダム・クレイトン、エヴァンス兄弟(兄ディック、弟デイヴ(ジ・エッジ))が集まり、5人で活動を始めたのがバンド結成のきっかけである。ドラムのラリーとギターのジ・エッジは少年の頃から演奏していたが、アダムはベースをろくに弾けず、アンプを持っているという理由でバンドに入った。ボノはギター希望だったが、楽器を持っていなかったのでボーカルになった。

当初のバンド名は「フィードバック(Feedback)」や「ザ・ハイプ(The Hype)」を経て、ディックが脱退した1978年に「U2」と決まった。その後、リムリックで行われたLimerick Civic Week Pop '78というタレントコンテストで優勝。1979年にはCBSアイルランドと契約して、「Out Of Control」「Stories For Boys」「Boy/Girl」の3曲入りシングル「スリー」をアイルランド国内[注 1]で1,000枚限定でリリースし、IREチャートで19位に食い込む。1979年から1980年にかけてイギリスとアイルランドで精力的にツアーを行った結果、ついにアイランド・レコードと契約を交わした[19]
1980年 - 1983年ボノ(1983年)

1980年2月、アイルランド国内でシングル「アナザー・デイ」(Another Day)を発表。5月に契約したアイランド・レコードからシングル「11オクロック・ティック・タック」(11 O'Clock Tick-Tock)でデビュー[19]。スティーブ・リリーホワイトのプロデュースで1枚目のアルバム『ボーイ』(Boy)を発表。

1981年に2枚目のアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』(October)、1983年に3枚目のアルバム『WAR(闘)』(War)を発表した。『WAR(闘)』のアルバムタイトルは母国アイルランドにおけるカトリックプロテスタントの宗教対立に対して、不偏の非暴力主義をアピールしている。アルバム収録曲の「ニュー・イヤーズ・デイ」(New Year's Day)はポーランド民主化運動独立自主管理労働組合「連帯」について取り上げた曲で、バンド初の全英シングルチャートトップ10入りとなった[20]。「ブラディ・サンデー」(Sunday Bloody Sunday)は北アイルランド問題の「血の日曜日事件」を取り上げ、アイルランド共和軍(IRA)の活動を批判する立場を示した。このため、IRA支持者から脅迫されたこともあったという。『WAR(闘)』はバンド初の全英アルバムチャート1位を獲得し[20]、バンドは多くの支持を集める結果になった。さらに、精力的なライブ活動などによりバンドの人気はイギリスヨーロッパ大陸のみならず、アメリカへと拡大した。

アメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』は、U2を1983年度の「最優秀バンド」に選出している。同年11月にはツアー最終公演地として日本を訪れ、初の日本公演を行った。来日時にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演し、「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露した。


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