U2
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特に意味はなく、ジ・エッジは「いろいろあった候補の中で一番マシなもの[18]」という程度で使ってみたが、時間が経つにつれどんどん好きになっていったという。ボノは「U2の魅力はその曖昧さにある。解釈の仕方は無限だろ[18]」と語っている。アダムは文字1個に数字1個だから、ポスターの中に大きく書くことができるし、宣伝文句の中にも滑り込ませやすいと指摘している。

ちなみに、1991年発表の『アクトン・ベイビー』収録曲の「ズー・ステーション」は実在するベルリン動物園駅(ドイツ語でZoologischer Garten)を指し、この駅の路線名は「U2(地下鉄2号線)」である。
メンバー


ボノ
(Bono)
ボーカルギター
1960年5月10日生まれジ・エッジ
(The Edge)
ギターピアノ
1961年8月8日生まれアダム・クレイトン
(Adam Clayton)
ベース
1960年3月13日生まれラリー・マレン・ジュニア
(Larry Mullen, Jr.)
ドラムスパーカッション
1961年10月31日生まれ

来歴
バンド結成からメジャーデビューまで

1976年アイルランドダブリンのマウント・テンプル高校の掲示板にラリー・マレン・ジュニアがバンドメンバー募集の貼り紙を出した[19]。これを知ったポール・ヒューソン(ボノ)、アダム・クレイトン、エヴァンス兄弟(兄ディック、弟デイヴ(ジ・エッジ))が集まり、5人で活動を始めたのがバンド結成のきっかけである。ドラムのラリーとギターのジ・エッジは少年の頃から演奏していたが、アダムはベースをろくに弾けず、アンプを持っているという理由でバンドに入った。ボノはギター希望だったが、楽器を持っていなかったのでボーカルになった。

当初のバンド名は「フィードバック(Feedback)」や「ザ・ハイプ(The Hype)」を経て、ディックが脱退した1978年に「U2」と決まった。その後、リムリックで行われたLimerick Civic Week Pop '78というタレントコンテストで優勝。1979年にはCBSアイルランドと契約して、「Out Of Control」「Stories For Boys」「Boy/Girl」の3曲入りシングル「スリー」をアイルランド国内[注 1]で1,000枚限定でリリースし、IREチャートで19位に食い込む。1979年から1980年にかけてイギリスとアイルランドで精力的にツアーを行った結果、ついにアイランド・レコードと契約を交わした[19]
1980年 - 1983年ボノ(1983年)

1980年2月、アイルランド国内でシングル「アナザー・デイ」(Another Day)を発表。5月に契約したアイランド・レコードからシングル「11オクロック・ティック・タック」(11 O'Clock Tick-Tock)でデビュー[19]。スティーブ・リリーホワイトのプロデュースで1枚目のアルバム『ボーイ』(Boy)を発表。

1981年に2枚目のアルバム『アイリッシュ・オクトーバー』(October)、1983年に3枚目のアルバム『WAR(闘)』(War)を発表した。『WAR(闘)』のアルバムタイトルは母国アイルランドにおけるカトリックプロテスタントの宗教対立に対して、不偏の非暴力主義をアピールしている。アルバム収録曲の「ニュー・イヤーズ・デイ」(New Year's Day)はポーランド民主化運動独立自主管理労働組合「連帯」について取り上げた曲で、バンド初の全英シングルチャートトップ10入りとなった[20]。「ブラディ・サンデー」(Sunday Bloody Sunday)は北アイルランド問題の「血の日曜日事件」を取り上げ、アイルランド共和軍(IRA)の活動を批判する立場を示した。このため、IRA支持者から脅迫されたこともあったという。『WAR(闘)』はバンド初の全英アルバムチャート1位を獲得し[20]、バンドは多くの支持を集める結果になった。さらに、精力的なライブ活動などによりバンドの人気はイギリスヨーロッパ大陸のみならず、アメリカへと拡大した。

アメリカの音楽雑誌『ローリング・ストーン』は、U2を1983年度の「最優秀バンド」に選出している。同年11月にはツアー最終公演地として日本を訪れ、初の日本公演を行った。来日時にはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演し、「ニュー・イヤーズ・デイ」を披露した。

社会問題や宗教観をストレートに表現する音楽スタイルは、当時のポストパンクニュー・ウェイヴ)と呼ばれた世代の中で異彩を放っていた。この初期3作品のディスクジャケットには、上半身裸の少年(ピーター・ローウェン[注 2])の写真が使用されている[注 3]
1984年 - 1989年

1984年、エチオピア飢餓救済を目指すバンド・エイドのチャリティーシングル「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」(Do They Know It's Christmas)にボノとアダム・クレイトンが参加。その後、ボノはアフリカ諸国の経済的自立を支援する様々な国際的プロジェクトに関与している。

1984年10月に4枚目のアルバム『?』(The Unforgettable Fire)を発表。原題の『Unforgettable Fire』とは広島・長崎への原爆投下を生き抜いた被爆者達が描いた絵画のタイトルで、絵画を見たメンバーが感銘を受けて名づけられたものである。元ロキシー・ミュージックブライアン・イーノと弟子のダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えてサウンドも深化し、このコンビはその後も重要な共同作業者となる。シングル「プライド」(Pride (In The Name Of Love))はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)へのトリビュート・ソングであり、全英シングルチャート3位のヒットとなった[20]

1985年にはウェンブリー・スタジアムで行われたチャリティーイベント『ライヴエイド』に出演したが[19]、ボノが観客席に降りてしまい、3曲歌う予定が2曲で時間切れになってしまった。大舞台でアクシデントにメンバーは意気消沈したが、クイーンと並ぶ熱いパフォーマンスと称賛され[21]、世界中にテレビ中継されたことで大ブレイクするきっかけになった。

1987年3月に5枚目のアルバム『ヨシュア・トゥリー』(The Joshua Tree)を発表。全英・全米チャート1位(全英アルバムチャート・Billboard 200)を獲得し[20][5]、イギリス音楽史上最速で売れたアルバムとなり、世界各国でNo.1ヒットを記録した。シングルカットされた「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」(With Or Without You)、「終わりなき旅」(I Still Haven't Found What I'm Looking For)はBillboard Hot 100で1位となった[5]。ライブツアーの規模も、アリーナクラスからスタジアムクラスに拡大した。また、ロビー・ロバートソンのソロ・アルバム『ロビー・ロバートソン』にメンバー全員が参加した。

1988年にはアメリカツアーのドキュメンタリー映画『魂の叫び』を公開し[注 4]、同名のアルバムも発表。


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