U.S.M1カービン
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M1カービンM1カービン及びM1A1カービン
M1カービン
種類軍用小銃
製造国 アメリカ合衆国
設計・製造ウィンチェスター・リピーティングアームズ
スプリングフィールド造兵廠
年代第二次世界大戦
仕様
種別セミオートマチックライフル
口径7.62mm
銃身長458mm
ライフリング4条右転
使用弾薬7.62x33mm
.30カービン弾
装弾数15発/30発(箱形弾倉
作動方式作動:ショートストロークピストン式
閉鎖:ロータリーボルト式
全長904mm
重量

2,490g(本体重量)2,630g(装填状態/スリング含む)
発射速度850-900発/分(M2/M3)
銃口初速600m/秒
有効射程300m
歴史 
設計年1938年-1941年
製造期間1941年9月-1945年8月まで
民間用 戦後-現在
配備期間1942年-1973年(アメリカ軍)
配備先アメリカ軍
警察予備隊/保安隊/自衛隊
ベトナム共和国軍
大韓民国国軍など
関連戦争・紛争第二次世界大戦
朝鮮戦争
第一次インドシナ戦争
ベトナム戦争
カンボジア内戦
製造数650万丁以上
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M1カービン(英語: M1 Carbine)は、1941年アメリカで開発された自動小銃。拳銃よりも射程や威力に優れた補助火器として、後方要員をはじめとする歩兵銃を携行しない兵士に対して配備された。

600万丁以上が製造され、第二次世界大戦から朝鮮戦争ベトナム戦争頃までアメリカ軍で使用されたほか、友好国の軍隊に向けて多数が輸出された。また、1960年代頃からは警察用・民生用ライフルとしても普及した。

M2カービンはM1カービンにセミオートとフルオートのセレクティブ・ファイア機能を備えたモデル、M3カービンはM2カービンに夜間暗視装置を装着可能にしたモデルである。
開発
背景

1930年代アメリカ陸軍では、飛行場・前線基地・占領地の警備などを主とする後方部隊用の警備用火器として、拳銃小銃短機関銃が使用されていた。しかし、長大で重い当時の主力小銃では取り回しが容易ではないうえ、連射性能に乏しく、また単発の射程・威力が過大である問題があった。短機関銃は連射性能こそ優れるが構造が複雑で大きさのわりに重く、拳銃弾を使用する都合で有効射程が短い。拳銃は軽便だが射程が短く、至近距離以外では威力も低いうえ、小型ゆえに操作が難しく安全で正確な取り扱いに熟練するのに時間がかかるという問題を抱えていた。そのため、警備用火器、また、下士官用の強力な自衛用火器として、軽量で長時間持ち歩いても疲れず、小銃と短機関銃の中間に位置するクラスの銃が求められた。

また、陸軍では第一次世界大戦の戦訓のもと、以前から拳銃より射程の長い補助火器が求められていたものの、予算面の都合などもあって長らく計画の承認を得られないままでいた[1]

1938年、陸軍歩兵総監(Chief of Infantry)だったジョージ・アーサー・リンチ少将(George Arthur Lynch)から陸軍武器科に対し、支援兵科向けの「軽小銃」(light rifle)の開発が提案された[2]。この提案も当初は受け入れられなかったが、1939年に第二次世界大戦が勃発したことで状況が変わり、1940年6月15日に再提案された後に陸軍長官の承認を受けることとなった。10月1日、武器科は多数の銃器メーカーや銃器設計者に対して新型軽小銃の設計要件として以下の事項を示した[1]

重量5ポンド以内。

有効射程は300ヤード(約274メートル)以上。セミオート射撃機能は必須。フルオート射撃も可能とすることが望ましい。

携行のために負革または同等の器具を取り付けられること。

弾薬は市販の.32ウィンチェスター・セルフローディング弾(英語版)と類似した同形式の.30口径弾を使用する。

設計案提出期限は1941年5月。

5月に行われた第1回審査では、複雑な構造の銃が排除され、ジョン・ガーランド設計案が高く評価された。しかし、機関部右上45度の位置に弾倉口を設けたレイアウトが問題視され、この点を修正し再設計された新型銃は元々の設計案よりも信頼性が劣ると判断された。結局、第1回審査に提出された設計案はいずれも採用されなかった。
ウィンチェスター社の試作歩兵銃「ウィンチェスター M30(英語版)」も参照

ウィンチェスター社は第1回審査に設計案を提出しなかったメーカーの1つである。当時、同社は.30-06スプリングフィールド弾(M2普通弾)を用いる新型歩兵銃の設計を行っており、これに集中するため軽小銃計画への参加は見送られていた。しかし、さらなる設計案を求めていた武器科はウィンチェスター社に接触し、新型歩兵銃を軽小銃計画の要件に沿って再設計するように求めた[2]

新型歩兵銃の前身は、ジョナサン・エドモンド・"エド"・ブローニング技師(Jonathan Edmund "Ed" Browning, ジョン・ブローニングの異母弟)がM1ガーランドの後継装備となることを想定して設計したG30小銃である。ウィンチェスター社は1938年11月30日にG30の設計案を購入し、翌年3月にはブローニングを雇用したが、わずか2ヶ月後の5月16日に彼は死去する。その後、G30小銃とブローニングの設計室をそのまま引き継いだのがデイヴィッド・マーシャル・ウィリアムズ(英語版)技師である。ガスシステムを改良したG30Mが1940年3月から4月頃に完成、海兵隊にてM1ガーランドおよびジョンソン小銃との比較が行われたものの、評価は3丁中最下位だった。ただし、この審査では最終的な結論が示されなかったため、以後も改良が続けられた。そして武器科研究開発部長ルネ・スタッドラー大佐(Rene Studler)からの打診を受けた時点で、7.5ポンドまで軽量化を図ったG30Rが設計されていた[3]
歩兵銃から軽小銃へ

ウィンチェスター社は2度目の審査に向け軽小銃の設計を開始した。スタッドラー大佐の打診から13日後、G30Rを原型とする最初の試作銃が完成した。ただし、開発主任エドウィン・パグスレー(Edwin Pugsley)との衝突があったため、ウィリアムズはこの時点の試作銃開発に参加していなかった。試作銃はおおむねブローニングの設計を引き継いでいたが、M1ガーランドと同様の回転ボルト閉鎖機構、そしてウィリアムズが考案したショートストロークピストン式(玉突き式)を取り入れていた。1941年8月9日、パグスレーの許可を得たウィリアムズがスタッドラー大佐のもとアバディーン性能試験場にて行われる試作銃の予備試験に参加する。この時の良好な試験結果を受けて軽小銃としての開発継続が決まり、9月15日までに最終的な設計案を提出することとされた。そして改良のために設計チームが再編された際、ウィリアムズは開発主任となる。しかし、ある技師がショートストロークピストンのアイデアを盗もうとしていると考えたウィリアムズが周囲と対立したため、パグスレーが呼び戻され、彼は再びチームを外れることとなった。9月12日、次の試作銃が完成するが、未解決の問題が残されていた。パグスレーから相談を受けたウィリアムズが対策にあたり、無事15日の試験に提出された。1941年9月30日、ウィンチェスター製軽小銃は制式名称United States Carbine, Caliber .30, M1として陸軍に採用されることとなった[3]。また、海軍および海兵隊でも、真珠湾攻撃の直前に350,000丁分の契約を結んでいる[4]

なお、ウィリアムズはかつてノースカロライナ州の刑務所に殺人容疑で服役していた。このときひそかに考案していた自動カービン銃の設計を行い、のちに刑務所所長の許可を得てカービン銃試作から試射まで行っている。そのためウィリアムズは「刑務所でカービン銃を作った男、カービン・ウィリアムズ」と新聞メディアに取り上げられ、後にこの事が話題になり、再審で無罪を勝ち取り釈放される。ウィリアムズは釈放後ウィンチェスター社へ入社、M1カービン開発に携わる事になった。
特徴M2カービンの分解図、銃身(4) の下に小型のガスピストン(18)が描かれている。作動したガスピストンはスライド(14)の先端部を突いて、それ以降はスライドだけが慣性力で後退させる。M1カービンとM1ガーランドの全長比較

M1カービンの特徴として、ボルトの閉鎖機構はM1ガーランドと同じくロータリー・ロッキングボルトを採用していたが、ガス圧でボルトを解放する機構にはショートストロークピストン式(玉突き式)を採用していた(この後、ショートストロークピストンは多くのアサルトライフルの設計に取り入れられ、AR-18G36といったモデルに採用されている)。

M1カービンの使用弾薬である.30カービン弾は、当時の標準的小銃弾に比してはるかに腔圧が低いという特性を持っていたため、これを活かした非常に短いガスピストンが用いられている。


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