Uボート
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作戦に投入されたUボートには様々な種類があり、初期の「丸木舟」と呼ばれた沿岸用II型から大西洋を中心に各方面で活躍したVII型、大西洋を横断できるIX型日本海軍の呂号潜水艦程度)、補給用の「乳牛」と呼ばれる大西洋での潜水艦補給用のXIV型Uボート、ヴァルター・ボートの外形だけを取り入れた、水中での行動が有利な艦型のXXI型、沿岸作戦用のXXIII型などがあった。撃沈された輸送船とUボート by Willy Stower(1917年)
開戦初期は撃沈した独航船を浮上観察する余裕があった。第二次大戦後期では潜望鏡での長時間の観察さえも撃沈される原因となった。

一部のUボートは、日本軍占領下のマレー半島ペナンなどを基地としてインド洋英連邦諸国の商船に対して通商破壊戦を行っていた。ヒトラーは、同通商破壊戦を強化するために同盟国日本に協力を呼びかけ、日本がUボートを手本として同様の潜水艦を量産することを期待して日本へ2隻のIX型Uボートを贈与した。1隻が日本に入港して呂号第五〇〇潜水艦として連合艦隊に編入されたが、小型で用兵上の不足があると判断された上に、日本の工業技術では1隻も製作不能とされた。また、日本は伊号潜水艦を5次に渉ってドイツに派遣、ドイツの必要とする工業原材料、技術を交換した(遣独潜水艦作戦)。参加した5隻の内、無事日本 - ドイツ間を完全往復できたのは伊号第八潜水艦1隻のみだった。

開戦以来、対潜戦闘に不慣れな英国は、抑留者や捕虜をカナダへ移送しようとしていたアランドラ・スター号を沈没させられるなど膨大な損害を蒙ったが、1942年に入ると、連合軍はUボートに対して

ソナーや逆探知、航空機搭載レーダーによる電子戦(これらにより、潜望鏡を出す事さえ命取りとなった[4]

護衛艦隊による護送船団方式

護衛空母による航空機での防御や、陸上基地から発進する対潜哨戒機での積極的な攻撃。

諜報戦の徹底(暗号の解読、フランス・大西洋沿岸の潜水艦基地に潜入したスパイやレジスタンスからの出航情報)

対潜水艦用爆雷の改良や「ヘッジホッグ」「スキッド」などの対潜前投兵器の投入

などあらゆる対策を実行した。これらが進展するにしたがって、大西洋の戦いはUボート部隊に不利となっていった。ドイツはとりわけ電子戦において後れをとっていた。ドイツ側はレーダー電波を逆探知する警戒装置(メトックス)を開発し連合軍の対潜哨戒機の探知を回避することができるようになったため、1942年夏に一時的に優位に立ったが[5]、翌43年春には連合軍がメトックスでは探知できない波長を使用するレーダーを実用化したためその優位も失われた[6]。またドイツ側は連合軍が新型レーダーを投入したことを見逃し、逆に警戒装置から漏れる電波を連合軍が探知していると誤解していたため、対抗手段の開発はさらに後手にまわることになってしまった[7]

対空兵装を強化するなどの策もとられたが、対空戦闘での少しの損害でも潜航不能になり、最終的に撃沈される例が相次いだ。このためシュノーケルの装備などで対抗した。これらの対策を施した潜水艦の大量投入で、一時的に戦果の低下を防ぐことができたが、護衛空母による哨戒が開始されるとUボートの損害は再び増加した。航空機に襲撃されては急速潜航などは無意味で、たとえ間に合ったとしても、航空機から放たれる爆雷かホーミング魚雷に粉砕された[8]。充電のために浮上航行していればレーダーか航空機に捉えられ、潜航していればソナー類に捉えられた。夜間に浮上している場合は、はるか遠方からレーダーに捉えられ、レーダー搭載機に忍び寄られて、気づいた時にはリー・ライト[9]を照射されて撃沈された。1944年になると在来型のVII型、IX型などは事実上無力化し、大戦初期の様な戦果は望めなくなった。しかし、大西洋からUボートを撤退させることにより、Uボートに振り向けられる連合軍の資源が都市爆撃や陸軍の戦術支援に回ることが予想されたため、連合軍を海に釘付けにするためにUボートの出撃は続けられた。

最終的な結果として、大戦全期を通じたUボートとその乗組員の損失は、849隻、約3万人に上った。一方、連合軍はその数倍に上る損害を受けたが、ついにUボートによる通商破壊で連合国側を屈服させることは出来なかった。

Uボート戦について、デーニッツは、「1938年から大Uボート艦隊を用いて戦争に入っていれば戦いの推移に決定的影響を及ぼせた(勝利できた)であろう。もし2倍のUボートを生産していても大きな影響を与えられた。しかし、第二次大戦では軍備不十分のまま対英戦に突入した」と戦後総括しているが、そもそもドイツの生産力では、それだけの艦隊を建造する事はできなかった[10]

大戦中にドイツが培った革新的な潜水艦技術は戦後、連合国側に吸収され、世界の潜水艦開発に大きな影響を及ぼした。
戦後のUボート

第二次大戦後、東西に分裂したドイツは東西冷戦の最前線となった。西ドイツは主権の回復と共に潜水艦を含む再軍備が認められたが、戦勝国のUボートへのトラウマは東西を問わず大きく、1954年に西ドイツと戦勝国との間で結ばれた軍備制限議定書により、Uボートは大戦中よりも大幅に小型化されたものしか保有が許されなかった。東ドイツ海軍は潜水艦を保有しなかった。

こうして1960年代に配備された201型潜水艦以降の西ドイツ海軍の潜水艦は排水量500t前後と小型になったが、ドイツに近いバルト海北海では有力な潜水艦戦力だった。性能が優れていたため、ナチス・ドイツによる被害を受けた国を含めて引き合いが相次ぎ、現在に至るまで世界各国に輸出されている。

1970年代からは輸出専用に中型化した209型潜水艦(水中排水量1810t)が各国で就役した。1990年代半ばに制限が解除されると、統一ドイツ海軍向けにも水中排水量1830tの中型潜水艦(212A型潜水艦)の建造が開始された。
損耗率

大戦において大きな戦果を残し、世界中の商船に恐れられたUボートであるが、ソナーなどが普及するにつれて撃沈されることが多くなり、第二次大戦を通じてUボート乗組員の死傷率は63%という数字だった。捕虜も含めると73%になり、時期や場所にもよるが、トータルでは生存者は3割程度しかいなかった事になる。

第二次大戦の最後の5か月、連合国商船の損耗は世界中で46隻で、しかもこの46隻は船団を組まずに単独航行していた船だった。だが、Uボートは151隻が撃沈された[11]
種類詳細は「Uボート艦型一覧」を参照
第一次世界大戦

U31型潜水艦

U43型潜水艦

Ms型潜水艦

UB型潜水艦

UC型潜水艦

UE型潜水艦

第二次世界大戦

UボートI型

UボートII型

UボートV型

UボートVII型

UボートIX型

UボートX型

UボートXI型

UボートXIV型

UボートXVIIB型

UボートXVIII型

UボートXXI型

UボートXXIII型

UボートXXVII型

以下、型式番号なし

ネガー

モルヒ

第二次世界大戦後

201型潜水艦

202型潜水艦

205型潜水艦

206型潜水艦

209型潜水艦

212A型潜水艦

214型潜水艦

現存艦

U1

1906年に起工したドイツ初のUボート。第一次世界大戦時、既に旧式艦だったために訓練艦として使用された。第二次大戦時にも破壊される事なく残り、ドイツ博物館に屋内展示されている[12]


IXC型 U505

1944年6月、モーリタニア、ブランコ岬沖でアメリカ海軍に拿捕[13]された後、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴにあるシカゴ科学産業博物館に屋内展示されている。


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