Uボート
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この項目では、ドイツ海軍の潜水艦について説明しています。その他のUボートについては「Uボート (曖昧さ回避)」をご覧ください。

Uボート(ドイツ語: U-Boot、英語: U-boat)は、ドイツ海軍の保有する潜水艦の総称。一般的には特に第一次世界大戦から第二次世界大戦の時期のものをいう。

ドイツ潜水艦隊の華々しい活躍により、Uボートの名はドイツ潜水艦代名詞として広く普及した。第一次大戦では約300隻が建造され、商船約5,300隻、戦艦10隻ほかを撃沈する戦果を上げたが、178隻が戦闘で失われた。

第二次大戦では1,131隻が建造され、終戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈する戦果をあげた。しかし、大戦中に連合国が有効な対策を編み出した事から849隻もの損失を出し、全ドイツ軍の他のあらゆる部隊よりも高い死亡率であった[1]U9(1914年)
概要

ドイツ語の「U-Boot(ウーボート)」は「Unterseeboot(ウンターゼーボート、水の下の舟艇)」の略語であり、時代・国籍を問わず全ての潜水艦を意味する。英語でU-boat(ユーボート)と言った場合は専ら第一次大戦・第二次大戦時期のドイツの潜水艦を意味する言葉として使われる[2]。Uとあるがアルファベットの形状と似ているという意味ではない。

潜水艦の用兵には、さまざまなものがあるが、第一次第二次の両世界大戦におけるドイツ海軍のUボートは、共に通商破壊を主目的として使用された。ドイツ海軍は強力な水上艦戦力をもたないため、制海権は絶えず英国側にあった。そのため、通商破壊を水上艦では行えず、敵の強力な水上艦隊の勢力下でも作戦行動が可能な潜水艦が、この任に最適だと考えたのである。

結果として海軍戦力が脆弱なドイツ海軍における主戦力となったが、最大の攻撃手段である魚雷の発火不良が相次ぎ、潜水艦隊司令長官であるカール・デーニッツにより「戦場で使用できない武器を配備したのは軍の歴史上見たことが無い」と語られるなど、技術面において多くの欠陥を抱えたまま運用された[3]

第二次世界大戦においては、連合国側は様々な対潜水艦戦略および戦術を展開し、最終的に旧型Uボートは劣勢に追い込まれていった。「対Uボート戦の末期(と初期)では立場が逆になった。狩られるのは商船ではなくUボートになったのである」(チャーチル・世界危機)は、両大戦のUボート戦を端的に表している。

また、Uボートの正確な位置は上層部も知らず、乗組員たちにしか分からなかったため、定時連絡が無くなってようやく「どうやら沈んだらしい」程度の事しか分からなかった[1]
特徴
潜水艦のメリット
当時の潜水艦は、「敵に発見されにくく、大型船を撃沈できる
魚雷をもち、建造費が大型艦に比べれば安価である」などのメリットがあった。これは列強の大国に対して、小国が取るゲリラ戦術のための兵器といえる。その反面で、「速度が低く、会敵の機会が少なく、接敵できても強力な護衛のつく水上艦との戦闘では不利」と評価されていた。
無警告攻撃
潜水艦の隠密性を最大限活用するため、Uボート戦では、商船に対しても無警告攻撃という戦法がとられた。主な標的となったのは、両大戦を通じて、敵国のイギリスなどと、植民地とを往来する商船であった。第一次世界大戦にアメリカが参戦した後は標的にアメリカからヨーロッパへの物資・兵員を積んだ商船が追加され、第二次世界大戦においては援ソ船団も加わった。
隠密輸送
通商破壊以外の用途としては、技術や物資の隠密輸送などに使用されたりもした。第二次世界大戦時には、同盟国の大日本帝国海軍に寄贈され複数が運用された他、日本の占領下にあったペナンを拠点に日本軍の支援を受けて活動していたものの、1945年5月のドイツの敗戦後に乗務員の同意を受けて大日本帝国海軍に接収された艦もある。
戦役
第一次世界大戦

第一次世界大戦1914年 - 1918年)において開戦時期のUボートの評価はそれほど高いものではなく、あくまでも補助艦艇という位置づけであった。その評価を一変させたのは、開戦から3か月後の1914年9月22日にオットー・ヴェディゲン大尉が指揮するU9が、イギリス海軍の装甲巡洋艦クレッシー級「アブーキア」、「クレッシー」、「ホーグ」の3隻を立て続けに撃沈してからであった。この戦果に各国海軍は驚愕し、とりわけイギリスが受けた衝撃は多大なものであった。ガリポリの戦いではオットー・ヘルジンク大尉が指揮するU21がイギリス海軍の戦艦「トライアンフ」と「マジェスティック」を撃沈しており、Uボートの勇名は世界にとどろいた。

これらの戦果に自信を付けたドイツ海軍は、1915年2月にイギリス周辺の海域を交戦海域に指定し、イギリスに向かう商船に対する無制限潜水艦作戦を開始する。その3か月後の1915年5月、ドイツのU20が戦時禁制品の火薬類運送中の英国船籍の豪華客船ルシタニア号を無警告で撃沈し、1,198人の犠牲者を出す。この中に123人のアメリカ市民が含まれており、著名な舞台演出家であるヴァンダービルト家の1人も犠牲となった。

この出来事は、イギリス側の外交戦術に最大限に利用され、アメリカ世論を反ドイツへと揺り動かし、連合国側に立って戦争に参戦する重要な要因となってしまう。そのため、ドイツは1915年8月に商船への無警告攻撃を禁止する布告を出し、Uボートが活躍する場は大幅に制限される。この布告を巡ってはドイツ首脳陣の間にあつれきが生じ、海軍大臣のティルピッツが辞任する騒ぎにまで発展する。

最終的にUボートによる無制限潜水艦戦は1917年1月に認められ、この年の2月から3月にかけて500隻近い商船がイギリス周辺や地中海で撃沈された。しかし、同年にアメリカが連合国側に立って参戦し、更にイギリス首相デビッド・ロイド・ジョージが強力に推進した護送船団方式と対潜戦技術の向上でUボートの戦果は急速に低下していく。

だが、イギリスが被った損害は甚大で、戦後のヴェルサイユ条約でドイツは潜水艦の保有を禁止された。
第二次世界大戦

第二次世界大戦1939年 - 1945年)においては、終戦に至るまでUボートは大西洋の戦いなど、図らずもドイツ海軍の主力兵器でありつづけ、戦後イギリス首相ウィンストン・チャーチルに「私が本当に怖れたのは、Uボートの脅威だけである」と言わせる働きをみせた。

ドイツがポーランドに侵攻し(1939年9月1日)、それに対して英仏がドイツに宣戦布告した1939年9月3日の時点で、ドイツ潜水艦隊司令官カール・デーニッツは57隻のUボートを擁していた(大西洋に派遣できたのは26隻)。デーニッツは1939年9月28日ヒトラーに「Uボートは英国を屈服させられます。しかしそれには300隻(100隻が哨戒、100隻が戦場への往復、100隻が整備)が必要です。しかも早急に」と説いたが、もともと海軍と疎遠だったヒトラーは「ゲーリングが英艦隊を追い回すであろう」と空軍への信頼を語り、イギリス側が備える時間を与えてしまった(この300隻体制は、ついに実現しなかった)。

Uボートの建造は開戦後もしばらくは進まなかったが、フランス占領後はトート設営相によりフランスの資源と人員を使った迅速なブンカーの設置がなされ、英国近海を通らずに大西洋へ出撃することができた。ブロック方式で大量の潜水艦が建造され、VII型のみに限っても最終的に1,162隻が就役した。緒戦では一部のUボート部隊が大西洋で通商破壊戦に投入され、イギリスへの商船に対し大きな被害を与えた。その他、アメリカ本土へスパイを送り込んだり、機雷封鎖作戦にも投入された。

作戦に投入されたUボートには様々な種類があり、初期の「丸木舟」と呼ばれた沿岸用II型から大西洋を中心に各方面で活躍したVII型、大西洋を横断できるIX型日本海軍の呂号潜水艦程度)、補給用の「乳牛」と呼ばれる大西洋での潜水艦補給用のXIV型Uボート、ヴァルター・ボートの外形だけを取り入れた、水中での行動が有利な艦型のXXI型、沿岸作戦用のXXIII型などがあった。


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