The+Beastie+Boys
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ソウル・ジャズ[1]

活動期間1979年 - 2012年
レーベル

ラット・ケージ(英語版)

デフ・ジャム

コロムビア

キャピトル

グランド・ロイヤル

共同作業者

ミックス・マスター・マイク

マニー・マーク

公式サイト ⇒ビースティ・ボーイズ 公式サイト

旧メンバー

ジョン・ベリー(英語版)

マイケル・"マイクD"・ダイアモンド(英語版)

ケイト・シェレンバック

アダム・"MCA"・ヤウク

アダム・"アドロック"・ホロヴィッツ(英語版)

ビースティ・ボーイズ(英語: Beastie Boys[注釈 1])は、1978年に結成されたニューヨーク発のアメリカのヒップホップ・グループである[3]。 マイケル・"マイクD"・ダイアモンド(英語版)(ボーカル、ドラムス)、アダム・"MCA"・ヤウク(ボーカル、ベース)、アダム・"アドロック"・ホロヴィッツ(英語版)(ボーカル、ギター、プログラミング)の3人で構成されている。

ビースティ・ボーイズは1978年に実験的ハードコアパンクバンド「ヤング・アボリジニーズ」(the Young Aborigines)のメンバーから結成されたバンドで、ボーカルにダイアモンド、ベースにジェレミー・シャタン、ギタリストにジョン・ベリー(英語版)、ドラムにケイト・シェレンバックを迎えている[4]。 1981年にシャタンが脱退すると、ヤウクがベースを担当するようになり、バンド名はビースティ・ボーイズに変更された。その後すぐにベリーが脱退し、ホロヴィッツが後任となった。

1983年の実験的なヒップホップ・シングル「Cooky Puss(英語版)」で地元での成功を収めた後、ビースティー・ボーイズはヒップホップへの完全な移行を行い、シェレンバックは脱退した。彼らは1985年にマドンナとツアーを行い、その1年後にはデビューアルバム『Licensed to Ill(英語版)』をリリースし、ビルボード200チャートでラップレコードとして初めて首位に立った[5]。 2枚目のアルバム『Paul's Boutique(英語版)』(1989年)は商業的には失敗に終わったが、後には絶賛を浴びた。その後、『Check Your Head(英語版)』(1992年)と『Ill Communication(英語版)』(1994年)がメインストリームで成功を収め、『Hello Nasty(英語版)』(1998年)、『To the 5 Boroughs(英語版)』(2004年)、『The Mix-Up(英語版)』(2007年)、『Hot Sauce Committee Part Two(英語版)』(2011年)が続いた。

ビースティ・ボーイズは米国で2000万枚のレコードを売り上げ、ビルボードが1991年に売上を記録し始めて以来、最も売れたラップグループとなった[6]。 1986年から2004年までに7枚のアルバムがプラチナセールスを記録し[7]、ビースティ・ボーイズは、世界で最も長く活動を続けるヒップホップ・グループの一つであった。2012年、ロックの殿堂入りを果たした3組目のラップグループとなった。同年、ヤウクが癌で死去し、マイクDとアドロックはヤウク無しでの音楽活動はありえないと判断し、音楽活動を休止。バンドの自叙伝の執筆や映画制作活動を開始。2018年には 『Beastie Boys Book』2020年には『Beastie Boys Story』(監督スパイク・ジョーンズ)を公開した。
概要

元々はダイヤモンドとヤウクが、初期に離脱した二人のメンバーと一緒に始めたハードコア・パンクバンドであった。ハードコア・パンク仲間のザ・ヤング・アンド・ザ・ユースレスからホロウィッツが加入し、ヒップホップ・ミュージシャン達とツアーを行ったりなどの交流を深めていく中で、当時としては珍しくレッド・ツェッペリンクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルなどロックの楽曲をサンプリングし、ラップロックのひな形が出来上がる。以降は、数多くの独創的な功績を残しており、ヒップホップからロック、さらにはクラブ・ミュージックにまで広大な影響力を及ぼした。リック・ルービンからは、「ヒップホップを郊外へ持ち出した」と評されている[8][9]

バンド名の由来は、敬愛するハードコア・パンクの重鎮バッド・ブレインズに肖り、「Bで始まる単語2つを冠するバンド名にしよう」と考案したもの[注釈 2]

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第77位。

2012年に、ロックの殿堂入りを果たした。授賞式には、マイクDとキング・アドロックが出席し、療養中だったMCAも手紙を寄せた。プレゼンターは、旧友のパブリック・エナミーチャックDLL・クール・Jが務めた。
略歴

1979年に、パンク・バンド「ザ・ヤング・アンド・ザ・ユースレス」として結成。1981年に、「ビースティ・ボーイズ」と改名する。1984年デフ・ジャムレーベルと契約したのを機に、ラップ/ヒップホップをフィーチャーしたサウンドへ転換。Run-D.M.C.LLクールJらデフ・ジャム所属のヒップホップ系アーティストとツアーを行った。

1986年に、デビュー・アルバム『ライセンス・トゥ・イル』を発表。ヒップホップと言えど、音楽的にはパンクやハードロックの色が強く、ラップも黒人的なリズム感を持ったものではないが、ヒップホップ・アルバムとしては初めてビルボード1位を獲得。当時、同じデフ・ジャムに所属していたスレイヤーのギタリスト、ケリー・キングが参加し、シングル・カットされた『ファイト・フォー・ユア・ライト』も大ヒットした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef