ビースティ・ボーイズ(英語: Beastie Boys[注釈 1])は、1978年に結成されたニューヨーク発のアメリカのヒップホップ・グループである[3]。 マイケル・"マイクD"・ダイアモンド(英語版)(ボーカル、ドラムス)、アダム・"MCA"・ヤウク(ボーカル、ベース)、アダム・"アドロック"・ホロヴィッツ(英語版)(ボーカル、ギター、プログラミング)の3人で構成されている。
ビースティ・ボーイズは1978年に実験的ハードコアパンクバンド「ヤング・アボリジニーズ」(the Young Aborigines)のメンバーから結成されたバンドで、ボーカルにダイアモンド、ベースにジェレミー・シャタン、ギタリストにジョン・ベリー(英語版)、ドラムにケイト・シェレンバックを迎えている[4]。 1981年にシャタンが脱退すると、ヤウクがベースを担当するようになり、バンド名はビースティ・ボーイズに変更された。その後すぐにベリーが脱退し、ホロヴィッツが後任となった。
1983年の実験的なヒップホップ・シングル「Cooky Puss(英語版)」で地元での成功を収めた後、ビースティー・ボーイズはヒップホップへの完全な移行を行い、シェレンバックは脱退した。彼らは1985年にマドンナとツアーを行い、その1年後にはデビューアルバム『Licensed to Ill(英語版)』をリリースし、ビルボード200チャートでラップレコードとして初めて首位に立った[5]。 2枚目のアルバム『Paul's Boutique(英語版)』(1989年)は商業的には失敗に終わったが、後には絶賛を浴びた。その後、『Check Your Head(英語版)』(1992年)と『Ill Communication(英語版)』(1994年)がメインストリームで成功を収め、『Hello Nasty(英語版)』(1998年)、『To the 5 Boroughs(英語版)』(2004年)、『The Mix-Up(英語版)』(2007年)、『Hot Sauce Committee Part Two(英語版)』(2011年)が続いた。
ビースティ・ボーイズは米国で2000万枚のレコードを売り上げ、ビルボードが1991年に売上を記録し始めて以来、最も売れたラップグループとなった[6]。 1986年から2004年までに7枚のアルバムがプラチナセールスを記録し[7]、ビースティ・ボーイズは、世界で最も長く活動を続けるヒップホップ・グループの一つであった。2012年、ロックの殿堂入りを果たした3組目のラップグループとなった。同年、ヤウクが癌で死去し、マイクDとアドロックはヤウク無しでの音楽活動はありえないと判断し、音楽活動を休止。バンドの自叙伝の執筆や映画制作活動を開始。2018年には 『Beastie Boys Book』2020年には『Beastie Boys Story』(監督スパイク・ジョーンズ)を公開した。 元々はダイヤモンドとヤウクが、初期に離脱した二人のメンバーと一緒に始めたハードコア・パンクバンドであった。ハードコア・パンク仲間のザ・ヤング・アンド・ザ・ユースレスからホロウィッツが加入し、ヒップホップ・ミュージシャン達とツアーを行ったりなどの交流を深めていく中で、当時としては珍しくレッド・ツェッペリンやクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルなどロックの楽曲をサンプリングし、ラップロックのひな形が出来上がる。以降は、数多くの独創的な功績を残しており、ヒップホップからロック、さらにはクラブ・ミュージックにまで広大な影響力を及ぼした。リック・ルービンからは、「ヒップホップを郊外へ持ち出した」と評されている[8][9]。 バンド名の由来は、敬愛するハードコア・パンクの重鎮バッド・ブレインズに肖り、「Bで始まる単語2つを冠するバンド名にしよう」と考案したもの[注釈 2]。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第77位。 2012年に、ロックの殿堂入りを果たした。授賞式には、マイクDとキング・アドロックが出席し、療養中だったMCAも手紙を寄せた。プレゼンターは、旧友のパブリック・エナミーのチャックDとLL・クール・Jが務めた。 1979年に、パンク・バンド「ザ・ヤング・アンド・ザ・ユースレス」として結成。1981年に、「ビースティ・ボーイズ」と改名する。1984年、デフ・ジャムレーベルと契約したのを機に、ラップ/ヒップホップをフィーチャーしたサウンドへ転換。Run-D.M.C.、LLクールJらデフ・ジャム所属のヒップホップ系アーティストとツアーを行った。 1986年に、デビュー・アルバム『ライセンス・トゥ・イル』を発表。ヒップホップと言えど、音楽的にはパンクやハードロックの色が強く、ラップも黒人的なリズム感を持ったものではないが、ヒップホップ・アルバムとしては初めてビルボード1位を獲得。当時、同じデフ・ジャムに所属していたスレイヤーのギタリスト、ケリー・キングが参加し、シングル・カットされた『ファイト・フォー・ユア・ライト』も大ヒットした。 その後もコンスタントにアルバムを発表。サンプリングを激しく活用し商業的失敗に終わったが評価の高い1989年の『ポールズ・ブティック』、再び楽器を手にし原点回帰したような1992年の『チェック・ユア・ヘッド』、ヒップホップとギターサウンドを融合させ、再びビルボード・チャート1位に輝いた1994年の『イル・コミュニケーション』(「サボタージュ」収録)などで人気を高め、1998年にはよりストレートなヒップホップを展開した『ハロー・ナスティ』がグラミー賞を受賞するなど、世界的な地位を確かなものとした。 2004年に『トゥ・ザ・5ボローズ』をリリースしており、ライブやシングル発行などの活動はこの間も絶えず行っているものの、アルバムリリースのペースは次第に遅くなっている。政治的な活動も行っており、1990年代半ばにチベット独立の支持を明らかにし、1996年には多くのアーティストを集めた大規模な「Tibetan Freedom Concert
概要
略歴
2006年に、彼らのライブを50人のファンが撮影したドキュメンタリー映画「ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国」が公開された。
2012年5月4日、MCAが癌で亡くなる。47歳没。これを受けて今後ビースティ・ボーイズとしてのライヴを行う予定がないことを残りのメンバーが明言した[11]。 1992年にはデフ・ジャムを離れ、キャピトル・レコードの支援で自身のレコード会社「グランドロイヤル (Grand Royal) 」を発足させ、同レーベルにはルシャス・ジャクソンをはじめアタリ・ティーンエイジ・ライオット、ショーン・レノン、ベン・リー、チボ・マット、バッファロー・ドーターなど多くの新進アーティストが契約し話題を呼んだ。 翌1993年にレコードのリリース事業を始めたほか、雑誌「Grand Royal Magazine」を発行し、1970年代の映画やテレビドラマ、大衆文化が好きな彼らの趣味に走った編集方針でアメリカのユース・カルチャーに影響を与えた。
グランドロイヤル