The+Beastie+Boys
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ビースティ・ボーイズは米国で2000万枚のレコードを売り上げ、ビルボードが1991年に売上を記録し始めて以来、最も売れたラップグループとなった[6]。 1986年から2004年までに7枚のアルバムがプラチナセールスを記録し[7]、ビースティ・ボーイズは、世界で最も長く活動を続けるヒップホップ・グループの一つであった。2012年、ロックの殿堂入りを果たした3組目のラップグループとなった。同年、ヤウクが癌で死去し、マイクDとアドロックはヤウク無しでの音楽活動はありえないと判断し、音楽活動を休止。バンドの自叙伝の執筆や映画制作活動を開始。2018年には 『Beastie Boys Book』2020年には『Beastie Boys Story』(監督スパイク・ジョーンズ)を公開した。
概要

元々はダイヤモンドとヤウクが、初期に離脱した二人のメンバーと一緒に始めたハードコア・パンクバンドであった。ハードコア・パンク仲間のザ・ヤング・アンド・ザ・ユースレスからホロウィッツが加入し、ヒップホップ・ミュージシャン達とツアーを行ったりなどの交流を深めていく中で、当時としては珍しくレッド・ツェッペリンクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルなどロックの楽曲をサンプリングし、ラップロックのひな形が出来上がる。以降は、数多くの独創的な功績を残しており、ヒップホップからロック、さらにはクラブ・ミュージックにまで広大な影響力を及ぼした。リック・ルービンからは、「ヒップホップを郊外へ持ち出した」と評されている[8][9]

バンド名の由来は、敬愛するハードコア・パンクの重鎮バッド・ブレインズに肖り、「Bで始まる単語2つを冠するバンド名にしよう」と考案したもの[注釈 2]

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第77位。

2012年に、ロックの殿堂入りを果たした。授賞式には、マイクDとキング・アドロックが出席し、療養中だったMCAも手紙を寄せた。プレゼンターは、旧友のパブリック・エナミーチャックDLL・クール・Jが務めた。
略歴

1979年に、パンク・バンド「ザ・ヤング・アンド・ザ・ユースレス」として結成。1981年に、「ビースティ・ボーイズ」と改名する。1984年デフ・ジャムレーベルと契約したのを機に、ラップ/ヒップホップをフィーチャーしたサウンドへ転換。Run-D.M.C.LLクールJらデフ・ジャム所属のヒップホップ系アーティストとツアーを行った。

1986年に、デビュー・アルバム『ライセンス・トゥ・イル』を発表。ヒップホップと言えど、音楽的にはパンクやハードロックの色が強く、ラップも黒人的なリズム感を持ったものではないが、ヒップホップ・アルバムとしては初めてビルボード1位を獲得。当時、同じデフ・ジャムに所属していたスレイヤーのギタリスト、ケリー・キングが参加し、シングル・カットされた『ファイト・フォー・ユア・ライト』も大ヒットした。

その後もコンスタントにアルバムを発表。サンプリングを激しく活用し商業的失敗に終わったが評価の高い1989年の『ポールズ・ブティック』、再び楽器を手にし原点回帰したような1992年の『チェック・ユア・ヘッド』、ヒップホップとギターサウンドを融合させ、再びビルボード・チャート1位に輝いた1994年の『イル・コミュニケーション』(「サボタージュ」収録)などで人気を高め、1998年にはよりストレートなヒップホップを展開した『ハロー・ナスティ』がグラミー賞を受賞するなど、世界的な地位を確かなものとした。

2004年に『トゥ・ザ・5ボローズ』をリリースしており、ライブやシングル発行などの活動はこの間も絶えず行っているものの、アルバムリリースのペースは次第に遅くなっている。政治的な活動も行っており、1990年代半ばにチベット独立の支持を明らかにし、1996年には多くのアーティストを集めた大規模な「Tibetan Freedom Concert(英語版)」を行いサンフランシスコに10万人を集め、以後も継続的に開催しチベット支援を続けている。また、911テロの被害者支援コンサート、イラク戦争に対するプロテストソングのリリースなど、2000年代に入り政治的主張の機会も増えている。

2006年に、彼らのライブを50人のファンが撮影したドキュメンタリー映画「ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国」が公開された。

2012年5月4日、MCAが癌で亡くなる。47歳没。これを受けて今後ビースティ・ボーイズとしてのライヴを行う予定がないことを残りのメンバーが明言した[11]
グランドロイヤル

1992年にはデフ・ジャムを離れ、キャピトル・レコードの支援で自身のレコード会社「グランドロイヤル (Grand Royal) 」を発足させ、同レーベルにはルシャス・ジャクソンをはじめアタリ・ティーンエイジ・ライオットショーン・レノンベン・リーチボ・マットバッファロー・ドーターなど多くの新進アーティストが契約し話題を呼んだ。

1993年にレコードのリリース事業を始めたほか、雑誌「Grand Royal Magazine」を発行し、1970年代の映画やテレビドラマ、大衆文化が好きな彼らの趣味に走った編集方針でアメリカのユース・カルチャーに影響を与えた。創刊号のブルース・リーの特集や史上最高のバスケットボール選手カリーム・アブドゥル=ジャバーのインタビュー、「世界最悪の髪型」マレット特集など反響を呼ぶ記事を多く掲載した。

以後もブラン・ヴァン3000など優れたアーティストとの契約を進めたものの、経営難で2001年には閉鎖し、彼ら自身はキャピトル・レコードに移籍した。
メンバーマイクDアドロックMCA


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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