Ta152
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Ta 152

戦後にイギリス軍が接収した
Ta 152H-1 150168号機(1946年撮影)

用途:迎撃戦闘機

分類:戦闘機

設計者:クルト・タンク

製造者:フォッケ・ヴルフ・フルークツォイクバウ社

運用者: ドイツ空軍

初飛行:1944年秋頃

生産数:67機 - 百数十機

運用開始:1945年1月

退役:1945年5月

運用状況:退役
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Ta 152(Focke-Wulf Ta 152)は、第二次世界大戦末期にドイツの航空機メーカー・フォッケ・ヴルフによって製造された高高度戦闘機。主任設計者のクルト・タンクの名から「Ta」とつけられた。
目次

1 概要

2 Fw190

3 開発経緯と実戦

4 主な改良点

5 実戦

6 究極のレシプロ戦闘機説

7 その他

8 各型の特徴

9 諸元

10 現存する機体

11 脚注

12 出典

13 参考文献

14 関連項目

15 外部リンク

概要

メッサーシュミット社のBf 109戦闘機と共に主力戦闘機として活躍したFw 190戦闘機の空冷型・A型を液冷エンジン搭載とし高々度性能を改善させた型であるFw 190D-9をさらに発展させた、より本格的な高々度戦闘機であり、「究極のレシプロ戦闘機」と紹介されることもある(詳しくは後述)。

ただし開発の遅れから生産数も少数にとどまり、戦局には寄与しなかった。ある程度量産され実戦にも投入された、全幅14.44mと高いアスペクト比を持った主翼を装備する高々度戦闘機型のH-0型、H-1型の他に、11mと従来のFw190と大差のない幅の主翼を持った標準戦闘機型[1]のC型なども開発された。
Fw190詳細は「フォッケウルフ Fw190」を参照

クルト・タンク設計によるFw190はドイツ空軍主力であった液冷エンジン搭載のBf109の補助として開発された空冷エンジン搭載の戦闘機であり、初飛行は1939年6月1日[2]、実戦デビューが1941年8月である[3]。だが、当時のBf109E型が搭載していたDB601Aが離昇出力1075馬力にすぎなかったところ、初期の量産型Fw190A-3では離昇出力1700馬力を発揮するBMW 801Dを装備しており、また設計の優秀さも相まって特に低高度 - 中高度では優れた飛行性能を発揮し、一時期は連合軍機を圧倒した[4][5]。余裕のある馬力と頑丈な機体は戦闘爆撃機型や突撃機型など様々な発展型を産み、頑丈でスパンの広い降着装置は重量の増加に対応したほか、前線の飛行場での運用も容易であった。まさしくタンクの期待したとおり、Fw190はさながら軍馬の様に各地の戦場で活躍を見、当初の補助戦闘機との枠を越え、ドイツ空軍の第二の主力戦闘機として大いに活躍した[5]

だがFw190には弱点があった。搭載するエンジン、BMW801は、一段二速の過給器を備え高度 5600m-5700mで1440馬力を発揮したが[6][7]、高度6000-7000mを超えると出力が急激に低下した[8][9][7]。これらはデビュー当時には問題にならなかったが、将来的に連合軍の重爆撃機の迎撃やその護衛戦闘機との戦闘を考えると憂慮すべき問題であった[10]。この為タンクは1941年初めから高々度性能改善の必要性を訴え[9]、3つの改善のプランが練られた。一つはBMW 801の性能強化を図ったFw190Bであったが、これは液体亜酸化窒素を使用する出力強化装置GM-1では全く所期の性能が得られず、さりとて排気タービンの早期の実用化は見込み薄と言うことで廃案になった[11]。液冷倒立V型12気筒DB603エンジンを搭載したFw190Cは排気タービンの耐久性・信頼性に難がありさらに操縦性もよくないと言うことでやはり廃案[12]。最終的に液冷倒立V型12気筒Jumo213A-1エンジン(離昇出力1776馬力、高度5800mで1600馬力)を搭載し胴体を若干延長したFw190D-9「ドーラ Dora」が採用され、1944年8月より量産されることとなった[13]。この型は相当な性能向上を果たし連合軍の新鋭機に十分対抗できるものではあったものの、排気タービンも、与圧キャビンも装備しておらず、本格的な高々度戦闘機とは言えなかった[14][15]

そこでタンクはさらなる改良型を計画していた。本格的な高々度戦闘機、計画名称Fw190Ra-4[16]こと、Ta-152である。なお、クルト・タンクはこれまでの功績を認められ、機体名に設計者のイニシャルを付与する栄誉を得ている[17][18][19][20][21][* 1][* 2]。一説にはDB603エンジンの使用を希望するタンクに空軍側がJumo213使用をもちかける上での取引の結果とも言われる[23]。いずれにせよこの型の機体名はTa-であるが、あくまでもFw190の発展形である。
開発経緯と実戦

フラッペ & ローランによれば、1942年の秋、先に述べたFw190の性能向上策(短期プログラム)が検討された時、長期プログラムとして、現有の戦闘機の改良ではない、新たな高々度戦闘機の開発も計画されていた。この際メッサーシュミットはMe155Bを提案したが、フォッケウルフはFw190Cで採用が見送られたDB603を搭載した、Fw190の更なる改善型を検討した。計画名称はFw190Ra-4。また、Bf109にDB601、Fw190AにBMW801、Fw190DにJumo213が採用されていたことから、これらと競合しないDB603の採用はエンジンの供給面でも有利と考えられた。だが空軍はJumo213の使用を指示し、1943年5月または8月に計画は承認、Ta152もそれを搭載して「特殊高々度戦闘機」の開発が行われることとなった[24][25]

野原 (2009) によれば、1942年初め頃、タンクはFw190Dをさらに改良した新型機、計画名称Fw190Ra-4を空軍に提案する。また別の文献によれば1942年末頃に空軍から出された要求は新技術を用い全面的に設計を改めた高性能戦闘機、などと言った感じの、漠然としたものであったという[26]。計画は承認され、Ta-153として、メッサーシュミット Me209との競争試作が始まった[16][* 3]。しかし1943年5月に競争試作は中止され、戦況を鑑み、つまり連合軍の新型爆撃機に対抗するための高々度迎撃戦闘機が必要であったため、Ta152として、改めて「特殊高々度戦闘機」として開発が行われることとなった。

いずれにしても1944年7月頃より既存のFw190を改造し、高々度戦闘機型のH型を優先して[28]試作および飛行テストが始まったが、2機続けて墜落。その後も事故は発生したが開発は進み、1945年1月からは第301戦闘航空団(JG301)にTa152H-1が配備され、実戦テストが開始された[29][30]。原型機は高度12000m付近でMW50を使用して750km/h、13800m付近でも737km/hの速度を発揮した[28]

なお、フラッペ & ローランによれば、Ta152の最初の型は、A型ではなくB型である。これはFw190A型との混同を避けるためであるとしている。また野原(2006)によれば、B型は地上攻撃型としている[31]。なおD型、F型、G型もFw190と混同してしまうため使用されず。さらにC型は将来のDB603搭載機の為に、E型は戦闘偵察機型の為に予約されていた。このような理由でTa152の初の量産機の型式はH型となったのである[32]

また1944年8月、空軍はようやくDB603の使用許可を下し[33]、1944年12月から翌1月にかけにはDB603LまたはLAエンジン(離昇出力2100馬力))を搭載し翼を全幅11mに切り詰めた中高度型のC1型が初飛行を行い、またC11型までが計画され相当数が試作されたが、原型機その他少数機(一説には17機)が生産されたにすぎない[34][35][36][* 4]


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