出来事について、代表的なものを記した。 ボーカルの前田は高校時代よりビーイングの事務所に通い[5]、また神奈川県内のライブハウスで活動していた。同時期、前田の学生時代からの友人であるベースの角野も神奈川県内のライブハウスを中心に活動していたが、角野が高校時代にキャバレーでライブ演奏をした際に、友人を通じて前田と出会っている[5]。また松本は、角野が高校で属していた部活の後輩である。そして、ビーイング主催の音楽祭を通して知り合った前田、角野、松本、春畑の4人で、プロデビューを前提として[5] アマチュアバンド「パイプライン」を結成。 1985年7月17日にデビュー曲『ベストセラー・サマー』で「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ系)へ初出演。当初予定していた海外バンドの出演がなくなったため、急遽代役として「夜のヒットスタジオ」に出演する格好となり、湘南のビーチでサーフィンをしていたTUBEのメンバーが、ビーチのアナウンスで通じて呼び出され、本番10分前に当時河田町にあったフジテレビに駆けつけた[6]。急遽出演が決まったためか、司会の井上順から『それではご紹介いたしましょう、ウェーブの皆さんです!』とバンド名を誤って紹介した[7]。 前田曰く、「1989年がTUBEにとって本当のデビューであった」とデビュー10年目の1994年に当時を回想している[8]。また春畑は、「織田哲郎さんは4人がアマチュアの頃からコピーしてたくらいだから曲を書いてもらえるのが嬉しかったが、作曲家の提供曲よりカッコ悪くてもいいから自分たちの音楽をやりたかった」[9] と当時を回想している。プロデューサーである長戸大幸はTUBEのメンバーが理想とする「自作」を許可し[9]、1989年以降は全曲の作詞・作曲をメンバーで手掛けるようになる。
1985年以前
1985年 - 1989年
1985年
5月30日 - 東京プリンスホテルにて「デビュー・コンベンションライブ」を行なう[5]。
6月1日 - バンド名「The TUBE」としてベストセラー・サマーでプロデビュー。この曲でザ・ベストテン、ザ・トップテン、夜のヒットスタジオDELUXE等の主要な歌番組への初出演を果たす。なお、デビュー当初はTUBEはシングル曲を外部作家に委ねていたが、翌1986年より楽曲はビーイング内の作家にシフトすることになる。
7月1日 - 1stアルバム「HEART OF SUMMER」をリリース、CDチャートTOP30入りを果たす。
11月24日 - 初の単体コンサートを逗子マリーナの会場で行なう[5]。
12月1日 - 「OFF SHORE DREAMIN'」をリリース。
1986年
4月21日 - バンド名を「TUBE」と改名し、3rdシングル『シーズン・イン・ザ・サン』をリリース。当時は仲間たちと事務所を立ち上げ、ビーイングを離れていた織田哲郎が外部として提供の初作品となる。キリン生ビールのCMソングに起用され、30万枚を超える大ヒットを記録する。ザ・ベストテン、ザ・トップテンの両ランキング番組でも初のトップ10入りを果たし、これ以後両番組での常連となる。
6月1日 - アルバム「THE SEASON IN THE SUN」をリリース。自身初のTOP5入りを記録し、カセットテープなどを含めると60万枚を超える大セールスを記録した。
1987年
2月26日 - 前田亘輝はアルバム『Loose』で、春畑道哉はアルバム『Drivin'』でソロ活動を開始。
5thシングル「SUMMER DREAM」をリリース、今作品も大ヒットを飛ばし「TUBE=夏」を定着させる。だが同年に夏とは関係のない異なった楽曲「Dance With You」、アルバム「Twilight Swim」がヒットし四季問わず人気というものを世間に知らした。
TUBEの楽曲作家陣で構成された渚のオールスターズの活動を開始。
キリンレモンのCMにも出演していたこともあり、この年の夏は「TUBEと行くサマークルーズ」と題した海外への船旅が懸賞として実施された(1988年も実施予定であったが角野の交通事故で中止に)。
1988年
4月30日 - 7thシングル「Beach Time」リリース。
5月23日 - 角野が交通事故を起こしたため、暫くの間バンド活動を自粛。この事故で車に同乗していた交際相手の女性が死亡するという大事故だった[5]。解散も含め真剣に話し合った結果、女性の家族の意向もあって活動継続を決めた[5]。角野が復帰するまでベースは栗林誠一郎が代役を務めることになった[5]。
8thシングル「Remember Me」をリリース、今作品も夏とは関係ない楽曲でありバラード調でもヒットを記録した。
現在も毎年恒例となっている横浜スタジアムでのライブがこの年から開催された。
1989年
5月 - 角野秀行が復帰。
6月1日 - 9thシングル「SUMMER CITY」リリース。この作品より完全にメンバーによる「作詞・作曲」の楽曲へと移行することになる。(編曲には明石昌夫等が携わる。)
1990年代
1990年
5月21日 - 11thシングル「あー夏休み」リリース。この作品から完全に作詞・作曲・編曲がTUBEのメンバーによるものとなる。制作過程ではプロデューサーの長戸大幸提案の曲調に戸惑う[5] が、それは従来のシングル曲路線と全く異なる曲調だったからである。その戸惑いとは裏腹に本作品は20万を超えるヒットを記録する。
日本有線大賞にて「あー夏休み」で有線音楽優秀賞を受賞。
1991年
7月1日 - 13thシングル「さよならイエスタデイ」リリース。この作品も「あー夏休み」同様にラテンリズムのサウンドであり、ここでまたTUBEはひとつのスタイル「ラテンサウンド」を確立させることとなる。この作品で初めてシングルの売上枚数が50万枚を突破し、推計60万枚を超すセールスを記録。
日本有線大賞にて「さよならイエスタデイ」で有線音楽優秀賞を受賞。
この年から阪神甲子園球場での野外ライブが恒例になる。(2015年を最後に一旦終了)
1992年
6月13日 - 12thアルバム「納涼」をリリース。
日本有線大賞にて「夏だね」、「ガラスのメモリーズ」で有線音楽優秀賞を受賞。
前作に並び、CDの売上枚数が50万枚以上(推計60~80万枚)を記録した。
この年からナゴヤ球場での野外ライブが恒例になる。(建て替えのため2002年を最後に終了)
1993年
5月12日 - 16thシングル「夏を待ちきれなくて」リリース。初のオリコンチャート1位を獲得。