TOYAMAキラリ
TOYAMAキラリ
情報
用途図書館・美術館・銀行・店舗
設計者アール・アイ・エー(RIA)、隈研吾建築都市設計事務所、三四五建築研究所
TOYAMAキラリ(トヤマキラリ)は、富山県富山市西町にある複合施設である。富山市立図書館本館、富山市ガラス美術館、富山第一銀行本店などが入居する[2]。2015年(平成27年)8月22日に全館オープンした。
アール・アイ・エー(RIA)、隈研吾建築都市設計事務所、三四五建築研究所の3社による共同企業体(JV)が設計を担当し、西町南地区第一種市街地再開発事業の一環として建設された[3]。1階は共用エントランスと富山第一銀行本店営業部門、2階から6階は富山市立図書館と富山市ガラス美術館、7階と8階は富山第一銀行本店業務執行部門、9階と10階は富山第一銀行ホールである[3]。3種類のパネル約1,000枚が並べられた外壁や、2階から6階まで斜めに開いた吹き抜け空間が特徴である[4]。日本で初めて図書館と銀行本店が同居する建物である[5]。
歴史
背景1938年の宮市大丸富山店(後の富山大和)とその周辺
富山市の中心市街地である総曲輪(そうがわ)は富山駅から南に約1.5kmの距離にあり、飛騨街道(現・国道41号)の起点として、江戸時代から交通の要衝であった地区である[6]。百貨店の宮市大丸(現・大和)は1932年(昭和7年)にこの地区に進出し[7]、宮市大丸は1943年(昭和18年)に丸越と合併して大和に改称した。
太平洋戦争末期の1945年7月には富山大空襲が行われ、富山城址公園の東南角を中心とした半径約1.2kmにある建物はほぼすべてが焼失[8]。空襲による焼失を免れたのは、富山大和、富山県庁舎、富山県立神通中学校(現・富山県立富山中部高校)などわずかな建物のみだった[8]。丸の内にあった富山市立図書館旧本館(1970-2015)
戦後の富山大和は周囲の土地を吸収しながら、1965年(昭和40年)・1973年(昭和48年)などに増築を行っている。歴史の古さや度重なる増築などが理由で、富山大和が建つ場所の土地建物権利関係は複雑な状況にあった[7]。1996年(平成8年)には、建物の老朽化を理由に富山大和が移転を検討し始め、跡地の再開発計画が浮上した[3]。一方で、総曲輪2丁目にある富山第一銀行本店も建物の老朽化により移転を模索していた。富山第一銀行本店は1951年(昭和26年)竣工の古典主義建築であり、東京・丸の内の第一銀行本店を模して建設されている。
富山地方鉄道富山軌道線本線(1系統と環状線)が走る桜橋電車通りは、富山軌道線富山都心線(環状線)が走る平和通りと西町交差点で交差する[3]。富山大和は西町交差点の南西角にあった[3]。西町交差点は「富山市の銀座四丁目(交差点)」とも呼ばれ[9]、富山市ガラス美術館によると「交差点を渡ると肩が触れ合うほどにぎわった」という[3]。
富山大和は富山市民に広く愛され、東京・銀座における服部時計店と比較されるほどである[10]。富山大和の屋上遊園地は富山で暮らす多くの中高年の記憶に残っている[11]。富山大和の跡地は、森雅志富山市長が「富山市民だけでなく富山県民全体にとっても、街の重心」と語る場所である[12]。
再開発計画TOYAMAキラリの設計の中心となった隈研吾
2001年(平成13年)に富山大和が西町南地区からの移転を正式に表明すると、2003年(平成15年)には地権者らによって再開発協議会が設立され、2006年(平成18年)には市街地再開発準備組合に移行した[7]。2007年(平成19年)2月8日には、青森市とともに富山市の中心市街地活性化基本計画が国の第1号認定を受け[3]、富山市は全国に先駆けてコンパクトシティを目指した取り組みを開始している[6]。