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1989年、テレビ朝日のバラエティ番組『アイドル共和国』内で、「平家派」のメンバーだった城島と山口が「城島茂バンド(通称:ジョーバンド)」というユニットを結成(更に前身のユニット名は「JURIA」)。 その後、社長のジャニー喜多川が「TOKIO BAND」というバンド名を与えた[16]。このTOKIO BANDが、現在のTOKIOの直接の前身に当たる。
1990年4月、国分(城島、山口と同じく「平家派」の出身)と松岡が「SMAP学園」選抜メンバーとして城島(山口はいない)と合流後、3名で最初のTOKIOを結成。 少し遅れて小島啓が加入し4人組となる。 しばらくこの4人での活動が続いたが、城島がジャニー喜多川に交渉した事により、山口がTOKIOメンバーに復帰した。
1992年頃から、ジャニーズJr.の中で頭角を現していた長瀬が時折サポートとして加入するようになる。それ以降デビューまで、雑誌・ラジオ等では長瀬を除く5人編成、テレビやライブでは長瀬を含む6人編成といった変則的な構成であったり、ダンスチームとバンドチームの2グループ制でも活動していた。城島はバンド側のみ所属し、残りのメンバーは両側に所属。主に少年隊、光GENJI、SMAPのバックダンサー及びバックバンドを担当し、それぞれのツアーやライブへの帯同、主演ミュージカルへの出演も経験した。
1993年10月10日より、NHK-BS2『アイドルオンステージ』にレギュラー出演開始(1994年12月まで)。
1994年1月5日から1月23日まで、全国7大都市のライブハウスでファーストライブツアーを敢行(合計23公演)[16]。5月15日に、大阪・松竹座で“1日10回公演”のライブを行う[16]。CDデビューを目前に控えた時期に小島啓が突然TOKIOを脱退してジャニーズ事務所からも退所したため、長瀬が正式なメンバーに昇格し、以降山口が脱退するまで24年間5人で活動する。7月12日、日本武道館でCDデビューの記者発表を行う[16]。8月10日から8月30日まで、全国9大都市でコンサートツアーを敢行(合計24公演)[16]。9月21日、Sony Recordsから『LOVE YOU ONLY』でCDデビュー[4]。キャッチフレーズは「ダテに待たせたワケじゃない」だった[17]。なお、当デビュー曲は、2021年現在もTOKIO自身最大のヒット・シングルとなっている[18]。 CDデビューから2か月後の1994年11月2日には日本武道館でコンサートを行った[16]。12月31日には、デビューから3か月10日という当時の史上最速記録(WaT、NiziU、櫻坂46[注 3]がこの記録をその後更新)で『第45回NHK紅白歌合戦』への初出場も果たす[19]。紅白へはCDデビュー前にも少年隊、光GENJIのバックダンサーとして出演、1996年の出演時には玉置浩二の「田園」でもバックを務めたりと、2017年まで24回連続出場していた[19]。これは、ジャニーズ事務所に所属するアーティスト(かつてジャニーズ事務所に所属していたアーティストも含む)におけるNHK紅白歌合戦の歴代最多出場記録である(2019年時点)。
1994年 - 2000年