TK-80
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TK-80組立済みのTK-80
開発元後藤富雄、加藤明
製造元日本電気
種別ワンボードマイコン
発売日1976年8月3日 (47年前) (1976-08-03)[1][2]
標準価格88,500円
売上台数17,000台(1977年10月まで)[3][注 1]
CPUμPD8080A 2.048MHz
メモリROM 768バイトRAM 512バイト
ディスプレイ7セグメントLED8桁による16進数表示
入力機器25キー
外部接続110bps シリアル入出力、8ビット x 3 パラレルポート
電源DC +5V 1.0A, +12V 0.15A
サイズ310(W)×180(D)mm(基板サイズ)
関連商品TK-80E、TK-80BS、COMPO BS/80、PDA-80

TK-80 (Training Kit μCOM80) とは、日本電気 (NEC) の半導体部門[注 2]1976年8月3日[1][2]に発売した、マイクロコンピューター(マイコン)システム開発のための「トレーニングキット」である。
概説

NECのμCOM80つまり8ビットプロセッサのトレーニングキット(※)である。

NEC側はもともとはあくまでトレーニングキット(※)のつもりで当キットを構想・設計・発売、つまり当時まだ知る人がほとんどおらずそもそも需要すら無かったマイクロプロセッサというものの需要を掘り起こすために、マイコンシステムを業務として開発する可能性のある技術部門や企業の技術者などが購入することを想定していたが、実際には公表された仕様を見て、基本となる入出力装置を備えているので高価な端末を別途用意せずこのまま本体だけでも使え、しかも入出力が最初から一体化された仕様で設計されているので(バラバラのものを組み合わせるのとは違って)確実に動く、ということに気付いた人々も多く、NEC側の想定とは異なりTK-80は相当の割合、探究心旺盛なアマチュアたちやこれを一個人で単体のコンピュータとして使ってみようと思う人々などに購入されることになった。購入層がNECの想定以上に広がり、当初の想定数の10倍ほど売れてゆくことにもなった。(※)マイクロプロセッサのトレーニングキットというものは、TK-80が登場するまではどういう性質のものだったか? ということについては当記事末尾の節で解説。
特徴

TK-80の特徴はデータの入出力のために、他の機器を必要としなかったことである。当時の他社のトレーニングキット(インテル製やモトローラ製など)の多くはデータ入出力を行うために、シリアル通信機能を備えた端末装置(テレタイプVDT装置など)を接続する必要があった。それに対しTK-80は16進入力キーパッドと8桁の7セグメントLED基板上に備えており、端末装置なしでシステムを使うことができたのである。
当キットの構想にいたる経緯、設計者たち、仕様決定の経緯、発売と売れ行き

1970年代、NECの半導体部門はインテル互換プロセッサを含むいくつかのマイクロプロセッサを開発し、1976年にはインテルとセカンドソース契約を結んだ。しかし、部門はそれらの販売に苦労していた。日本ではマイクロプロセッサに興味を持っている技術者はほとんど見つからず、NECの営業マンは大きな利益をもたらす需要を見つけることができなかった[3]

1976年2月、半導体・集積回路販売事業部[注 3]はマイクロコンピュータ販売部を設立し、マイクロプロセッサの販売を促進するために開発環境の供給を開始した。しかし、顧客の元へ訪れて説明するも、なかなかマイクロプロセッサを理解してもらえない状況にあった。同じ頃、NECは日本電信電話公社横須賀通信研究所のある研究室から、新人教育用のマイクロコンピュータ製品の開発を受注することになった。同部門の後藤富雄は部長の渡辺和也に教育用キットの開発を提案した。このキットに基づいて、TK-80は一般の技術者向けに開発され、マイクロプロセッサの需要を産業分野以外に創出することを目的としていた[1][5][6]

後藤富雄がTK-80の主要部分を設計し、加藤明が詳細設計を行った[5]。後藤はKIM-1の写真からアイデアを取り入れた。KIM-1はソフトウェアで現在のアドレスを表示するようになっていたが、CPUがハングするとディスプレイが消えてしまう。TK-80は555タイマーICを使ってCPUに割り込みをかけるダイナミックディスプレイを採用したことで、常に現在のアドレスを表示できるようになった。それに加え、TK-80はCMOSバッテリ機構を搭載していた。後藤はオープンアーキテクチャであったPDP-8の影響を受けて、TK-80のマニュアルに回路図やデバッグ・モニタのアセンブリコードを掲載することにした[7]

TK-80は1976年8月3日に発売された。当時の技術者の課長が決済できる88,500円の価格が設定された。NECは1976年9月13日秋葉原ラジオ会館にてサポートセンター (Bit-INN) を開設した。すると、多くのTK-80が電気技術者だけでなく経営者、好事家や学生などにも売れていることが判明した。TK-80は月200台の販売予測に反して、月2,000台を販売した[1]
反響、影響、その後の展開など

この成功を受けてすぐに、他の日本のマイクロプロセッサメーカーはそれぞれのマイクロプロセッサ用に評価キットを開発した。サードパーティからは電源や周辺機器などが登場した。渡辺とその部下は1977年7月に入門書『マイコン入門』を執筆すると、それは大ヒットして20万冊以上を売り上げた[5]。また、月刊アスキーI/O月刊マイコンRAMといったコンピュータ雑誌が創刊された。

加藤がBit-INNで販売・修理のサポートをしていたとき、ある医者からTK-80を医療点数計算に使う方法について質問され、また商店主からTK-80で販売伝票を整理できるか質問された。加藤は、ユーザーがTK-80を教育キットではなくコンピュータとして使おうとしていることに気付いた。しかし、TK-80は実用で使用するためにはメモリと拡張性が不足していた。同じ頃、サードパーティのメーカーより、テレビ出力とBASICインタプリタを搭載した拡張ボードが提案された[8]。このボードをTK-80に組み込んだバージョンが、1977年末にTK-80BSとして発売された。搭載されたBASICは4KBのROMに収まるように設計され、いくつかの機能やステートメントの違いを除いて王理?Tiny BASICと同じであった[9]。その機能や速度はユーザーを満足させるには至らなかった。このことが後のPC-8001の開発に繋がった[6][10]

日本では、Altair 8800は1975年に販売されていたが、輸入仲介手数料が高かったため売れなかった。Apple IIPET 2001も同様であった[11]。こうしてワンボードマイコンは人気を博した。

TK-80やTK-80BSなどのおかげで、コンピュータやソフトウェアに関するハードルが一気に下がり、日本でコンピュータを熱心に利用する人々が多数誕生し、こうした人々が1979年のPC-8001が発売によってさらにその購入者・ユーザとなるなど、日本のパーソナルコンピュータ業界の盛り上がりへと真っ直ぐに繋がってゆくことになる。


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