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THE BREAKERS(ザ・ブレイカーズ)は、日本のロック・バンド。1978年に結成、1985年に解散。 真島が中学生の時、同級生の杉浦と組んだバンドが前身。高校の頃からTHE BREAKERSとして活動を始めた。当時は真島がベースを担当。中学が一緒だった大槻は一時的にドラムで参加していた。大槻の紹介で篠原がドラムとして加入(本来はベーシスト)。その後、篠原の高校の後輩である蓬田をドラマーとして迎え入れ、ベースの担当が真島から篠原に替わり、真島はギター担当になり4人編成となる。蓬田が脱退することになり、旧知の仲であった大槻が参加した。杉浦の脱退により3人編成となる。サポートのキーボード、ギターを入れてライブ活動を続行していたが、1985年に解散。 新宿、原宿のライブハウスを中心に活動し、ザ・コーツ、THE LONDON TIMES、ザ・シャムロックなどのバンドと共演し、モッズ族のヒーロー的存在として人気を集めていた。先駆者的に、原宿の歩行者天国でのバンド演奏を行っていた。当時のロックイベントに出演した映像や歩行者天国での映像はYouTubeなどで見ることができる。シーナ&ザ・ロケッツやRCサクセションが所属していた音楽事務所「りぼん」に所属。 後年、真島のソロで発表される「アンダルシアに憧れて」、「煙突のある街」は当時、THE BREAKERSで演奏されていた。「カレーライスにゃかなわない」、「さすらいのニコチン野郎」、「夜の中を」、「ローリングジェットサンダー」、「岡本君」なども元々は当時演奏されていた曲がベースになっている。元々はTHE BREAKERSの頃の曲で、後のTHE BLUE HEARTSやTHE HIGH-LOWS、ソロ作品の下敷きになった曲も多い。 THE BLUE HEARTSでデビュー以降、髪型があまり変わらない真島であるが、THE BREAKERS時代の髪型はリーゼント(1960年代のマージービート・バンドの影響)や、モヒカン(ザ・クラッシュのジョー・ストラマーの影響)など様々であり、ニックネームも「マーシー」ではなく「マッシー」だった。 真島は後年、自身の著書で、電気のブレーカーから命名したことを回顧[1]。当時住んでいた団地でブレーカーがよく落ちたとのこと。 真島は篠原と「ホリー・バーバリアン」というユニットで一度限りのライブを行う。甲本ヒロトらとTHE BLUE HEARTSやTHE HIGH-LOWSを結成。現在もザ・クロマニヨンズで精力的に活動。 篠原は1988年にソロ・シンガーとしてメルダックからメジャー・デビュー。ソロアルバムを2枚発表するが、その後、ソロ活動に疑問を持ち、1991年に大槻や古川英俊と共にTHE BRICK'S TONEを結成する。篠原は「ピノキオズ」、古川は「SPRRAY」、大槻は「ピアノトリオ」やドラム教室の講師としての活動も並行して行っている。解散後も篠原や大槻は真島のソロツアーやソロアルバムに参加している。
メンバー
真島昌利(ましま まさとし、1962年2月20日 - ) - ギター・ボーカル現ザ・クロマニヨンズ(元THE BLUE HEARTS、THE HIGH-LOWS)。通称「マッシー」(現在は「マーシー」)。
杉浦光治(すぎうら こうじ) - ギター・ボーカル結成当初からのメンバーだが、1984年2月に脱退。解散後、メンバーはほとんど彼に会っていないらしい。通称「オッちゃん」。
篠原太郎 (しのはら たろう、1963年2月25日 - ) - ベース・ボーカル現THE BRICK'S TONE、ピノキオズ。通称「タロウ」、「タロサ」。
大槻敏彦 (おおつき としひこ、1962年7月10日 - ) - ドラム・ボーカル現THE BRICK'S TONE、ピアノトリオ。通称「ヒコ」。
その他のメンバー
石井アキラ(いしい あきら) - ギター元ピカピカ。杉浦脱退後にサポートメンバーとして参加。1985年ラストライブにも参加している。
八木橋カンペー(やぎはし かんぺー) - キーボード1986年から解散まで、チェッカーズのサポートメンバーとして活動。THE BREAKERS後期のサポートメンバーとしてキーボードを担当した。
中島一徳 - ベース8 1/2に所属。THE BREAKERSとして初めて出演した1978年クリスマスのライブに、ベーシストとして参加した[1]。
田島 - ドラムボルシーに所属。THE BREAKERSとして初めて出演した1978年クリスマスのライブに、ドラマーとして参加した[1]。
概要
略歴
1978年杉浦(ギター)と真島(ベース)が中心となりトリオバンドとして結成。初期の頃はラブソングを中心に歌っていた。
1982年初代ドラマーの加藤が真島、杉浦との意見の相違から脱退。篠原がドラムとして参加。その後、篠原がベースになり真島はギターとなる。そして大槻がドラムで参加。
1983年ビクター系列のレコード会社、フィリップス・レコードよりメジャー・デビューが決定する。しかし、所属事務所「りぼん」とレコード会社間で、初回プレス数について折り合いがつかず、デビューの話は白紙となる。デビュー・シングルとして発売予定だった「涙のCOOL DANCING/ダイヤルを廻すだけでいいのに」はプレス直前であり、業界向サンプルカセットテープなどは出回っていたが、結局、発売には至らなかった。
1984年2月19日、杉浦が脱退。その後は真島・篠原・大槻の3人で活動を継続。この年の3月21日に、前年に白紙となったシングルを自主制作で発表する話もあったが、それも白紙となった。
1985年1月25日、新宿JAM STUDIOのイベント「マーチ・オブ・ザ・モッズ」での演奏を最後にバンドは解散。なお、この日のライブには甲本ヒロトが飛び入りでステージに上がった。
解散後
楽曲
オリジナル曲
3人ボーカル(杉浦、真島、篠原)
BREAKERS STOMP!
真島ボーカル
涙のCOOL DANCING
デモが存在する。
ボツになったシングルレコードのA面。解散直前に歌詞を大幅に変えた。
アンダルシアに憧れて
デモが存在する。
歌詞を変えて真島のソロシングルでセルフカバーされた。後に近藤真彦に楽曲提供された。
錆びたナイフ
デモが存在する。
プラットホームで待ちくたびれて
デモが存在する。
BEATにしびれて
デモが存在する。後の「さすらいのニコチン野郎」。
定番のラストナンバーだった。初期は「チャックベリーがエレキギター弾けば」だったが、後期には「ブッカ―Tがオルガンを弾けば」と歌詞を変えて歌われた。初期の頃は他部でも歌詞が変えられて歌われることもあった。
ママにさよなら
デモが存在する。
メロディは後の「TRAIN-TRAIN」の一部になった説もあるが、真相は不明。
スーパーマンを紹介するぜ
デモが存在するが、よくデモと間違えられる音源がある。
後の「カレーライスにゃかなわない」。