TBSテレビ
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[注 12][52][50]

9月10日:カラーテレビ本放送を開始(ちなみにNHK、日本テレビと共に東京地区では初だった)。開始記念番組として、Fスタジオから、小牧・橘・松山各バレー団出演による『カラー・ミュージカル「バレー・フェスティバル」』を放送。[注 13][52][54][55][注 14]

10月10日:ラジオ東京が東京証券取引所第1部に株式上場[52]

10月頃(期日不明):自社が所有するアンペックス社のモノクロVTRのカラー化の為に、カラー付加器(アタッチメント)を導入。[53]

11月29日:株式会社東京放送(とうきょうほうそう)と商号変更し、略称をTBSとする[52]。この頃、「東京テレビ」「東京ラジオ」という呼称を採用したものの、定着には至らなかった。

「TBS」の筆記体ロゴ
(1961年8月から1991年9月29日まで使用)旧社屋竣工当時の外観
(1961年)

1961年(昭和36年)

2月28日:初のカラーテレビ中継車が完成。同局の第5号のテレビ中継車として活躍。[56][57]

8月1日:業務用マーク制定[57](原案者:今道潤三、制作者:市川景)。電波をモチーフにした筆記体の「TBS」をアレンジしたもので、CI導入の1991年まで長く使用された。

9月:コーポレートカラー「光の3原色(青・赤・緑=能力・熱意・責任)」制定。車両の塗装や局名告知等に使用開始。

10月1日:「光の3原色」による社旗、社章(バッジ)制定。[57]

10月12日:赤坂のテレビスタジオ隣に、本館の本社社屋が完成。ラジオスタジオおよび本社機構が移転する。更に第3次テレビ増設工事も同時に完成。これに伴い、テレビのGスタも完成する。[57]

12月1日:社名呼称をTBSに統一(公用文等を除き、原則「東京放送」を使用しない)。[57]

12月24日 - 創立10周年記念企画として、「TBSソング」(中村メイコ作詞・神津善行作曲)の放送を開始。[57][注 15]


1962年(昭和37年)10月1日:史上初の“キャスターニュース”かつネットワーク制作参加ニュース『JNNニュースコープ』スタート(初代キャスターは田英夫戸川猪佐武)(1990年4月1日終了)[58]。夕方のニュース番組の草分けとなる。

1963年(昭和37年)

5月12日 : 第18回毎日マラソンのテレビ(独占)中継にて、日本初のマラソン完全中継を行う。[59]

9月1日:テレビ番組自動送出装置(APS)の運用を開始。[59][60]

11月1日:全日放送開始。[59][60]


1964年(昭和39年)

1月6日音声多重放送の実験局の免許を申請。[59]

2月:東京オリンピック開催に備え、VTR室を建設。[61]

4月12,19日:「東芝日曜劇場『愛と死を見つめて』」を、同番組初の2週に渡って放送。後に4回もアンコール放送をする程の大反響を得る。青山和子の歌による同名の主題歌もこの年(第6回)の日本レコード大賞の大賞を受賞した。[59][62]

4月20日:テレビ番組自動送出装置(APS)の送出を全番組に拡大する。[59]

6月16日

新潟地震が発生。JNN加盟局である新潟放送を支援しながら、地震報道を行う。[59]

在京民放テレビ5社共同で、日本初のUHF帯の中継局である、日立UHFテレビ中継局を開局。[59]


9月:VTR室に、芝電機製のオール・トランジスター型VTR(型番:7624)を新たに3台導入、稼働開始。この時点で既に、VTRのカラー対応も装備される。[注 16][61][53][63]

10月7日音声多重放送の実験局の免許を取得。[64]

10月10日

東京オリンピック開催。期間中、同局のテレビ放送では、16種目を中継する。[64]

前述の開催中継を受け、同社初の放送での本格的なカラーVTRの稼動を始める(この開会式が、TBSが録画したもので残っている最古のカラービデオである)。



1965年(昭和40年)10月5日:テレビ初のベストテン番組『TBS歌謡曲ベストテン』放送開始。[65]

1966年(昭和41年)

1月2日円谷プロダクションの制作による、自局初の特撮による連続テレビドラマ第1弾『ウルトラQ』放送開始(モノクロ)。[65]

7月2日:カラー劇映画『土曜ロードショー』スタート[65]。この頃から、カラー番組が少しずつ増加していく。

7月10日:『兼高かおる世界の旅』、この日の放送分から一部の回にて、カラー制作による本格的な放映を開始(同番組の全面カラー化は翌年4月2日放送分から)。

7月17日円谷プロダクションの制作による、特撮連続テレビドラマ『ウルトラマン』放送開始(カラー)[65](以後同シリーズは、全てカラーとなる)。

9月16日:オランダ・フィリップス社製の最新型プランビコン式カラーカメラ(型番:PC-60)4式を、日本で初めてGスタジオに導入。それまでのカラーカメラに比べ、大きさ、重さ共に約3分の1となり、かつ美しい自然な画質と安定した性能を持ったのが功を奏し、これを契機に、スタジオカラーカメラでの本格的な制作を開始する様になる。[66][67]

9月24日:東京タワーに、新たに東芝製の純国産の送信機(全空冷式TV-55A型 終段管は8F67R)が増設され、同局3代目(同タワー2代目かつ2号機)の送信機として稼働開始。[68]

10月3日:前述のカラーカメラを使ってGスタジオで制作された、この日放映の「ナショナル劇場 カラー・ミュージカル・バラエティー『トッポ・ジージョ・イン・ジャパン』」(3週連続放送)が、局の自主制作としては初の本格的なスタジオカラー制作番組(カラーVTR録画・再生)として放映。[66][67]

12月:アンペックス社製ハイバンドカラーVTR(型番:VR-2000)を導入(翌年6月には同型もう1台を追加導入)。[66][69]


1967年(昭和42年)

1月15日:「東芝日曜劇場10周年記念カラー放送『女と味噌汁 その6』」(1965年から始まった連続シリーズ)が局初のスタジオカラーテレビドラマ(カラーVTR録画・再生)として制作・放送。[66][67]

4月26日:初代6号中継車(カラー仕様)導入(カメラには、前年Gスタで導入されたフィリップス社製(型番:PC-60)のカラーカメラを4台使用。)。導入日当日に、この中継車を使い、川崎球場からのプロ野球ナイター中継「大洋 対 巨人」をカラーで放送。これを機に、自社でのカラー中継車を使った番組制作を、本格的に始める。[70][71][72]

9月:テレビHスタジオが誕生。[69]

12月31日:『オールスター大行進』(この年は『1967年ヒットソングスター大行進』(於歌舞伎座))、この年からカラー放送となる。[73]


1968年(昭和43年)

この年、テレビ・スタジオのカラー化改修を進める。1月にCスタ、4月にはDスタ、7月にはEスタ、9月にはHスタと急ピッチで改修された。既にカラースタジオだったFスタも8月に再改修され、同年9月4日には、全てのテレビスタジオのカラー化が完了した。[69][74]

2月3日大橋巨泉の司会による大喜利番組『お笑い頭の体操』放送開始(モノクロ。1970年1月3日よりカラー。1975年12月27日終了)。[74]

9月30日

この日から、自社のテレビニュース番組(『JNNニュースコープ』、『TBSニュース』)のカラー放送を開始[74]。これに伴い、カラーフィルムによるニュース取材を開始。

週1回のボクシング中継番組『キックボクシング中継』放送開始(カラー。1980年3月29日終了)。[74][75]

平日昼の帯ドラマシリーズ『ポーラテレビ小説』放送開始(第1作は『三人の母』)(モノクロ。1971年3月29日の第6作『お登勢』第1回よりカラー。1986年9月26日の第40作『恋とオムレツ』の最終回で終了)。[74]


12月31日:この年の『ゆく年くる年』(フジ系を除く全民放テレビ局同時ネット)の制作局を担当に当り、この年から同番組に於いての、カラー放送(一部中継部分を除く)を初めて実施。[76]


1969年(昭和44年)

6月30日:平日正午からのクイズ番組「ベルトクイズQ&Q」放送開始(モノクロ。翌年(1970年)12月28日からカラー化)。この番組に於いて、初めてテレビ番組にてコンピュータを使用する。[77]

7月21日:『アポロ11号月面着陸特番』を放送。13日間で述べ27時間52分放送した。[77]

8月4日:「ナショナル劇場水戸黄門』」放送開始(カラー)。[77]

10月4日ザ・ドリフターズがメインのお笑い歌謡公開バラエティ番組『8時だョ!全員集合』放送開始(カラー)(一時中断時期を挟み、1985年9月28日まで)。[77]

12月31日:『輝く!日本レコード大賞』を、この年から大晦日の生中継にてカラーで放送。以後、2005年まで同局の大晦日の看板番組となり、2006年以降は12月30日の恒例番組になっている。


1970年代

1970年(昭和45年)

2月4日:ドラマ『時間ですよ』が連続シリーズドラマとして放送開始(第30回までモノクロ。以降カラー)。[78]

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