T4作戦
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当然、T4作戦の実際の開始時期も10月以前であり、本格的に動き出すのは、遅くとも1939年7月のことである[52]。この頃、ヒトラーは次官のレオナルド・コンティ(ドイツ語版)、マルティン・ボルマン、ハンス・ハインリヒ・ラマースを呼び、精神障害者の「安楽死」を依頼している[52]レオナルド・コンティ。ドイツ降伏後にアメリカ軍に逮捕された際のマグショット

この時のヒトラーの発言からは、9月1日に始まるポーランド戦の準備の一環として、病院や医師、看護師の効率利用のために精神病患者の殺害に踏み切ったことが読み取れる[27]。1935年にヒトラーは、ゲルハルト・ワーグナー(ドイツ語版) (ナチス医師同盟総統・帝国医師総統)[53] に対して、戦争を利用すれば精神病患者の「安楽死」がスムーズに進むだけでなく、キリスト教会からの反対の声も弱まるだろうと語ったと伝えられており[27]第2次世界大戦を障害者殺害の好機ととらえたらしい。

こうして安楽死政策は立法化も正式な発表も行われないまま、病院や殺害精神病院で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった[# 10]。ブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官ロタール・クライシヒ(ドイツ語版)らの努力はあったが、結局最後まで安楽死制度は法制化されなかった[28]
「中央機関」ティアガルテン通り4番地にあった邸宅。T4作戦の中央機関がここに置かれた。元はユダヤ人所有の建物だったと言われている[54]

T4作戦は「子ども安楽死」の時と同様に極秘裏に進められた[55]。理由は、患者殺害に反対する官庁の影響を排除するため、前線と国内に不安を醸成させないため、敵国の反独プロパガンダを誘わないため、キリスト教会の反対を避けるためなどだった[55]。T4作戦の準備は総統官房第U局が行いブラントとボウラーが監督、帝国内務省第W局のヘルベルト・リンデン(ドイツ語版)が協力した[55]。しかし、総統官房が安楽死作戦の作戦司令部であることが発覚することを恐れたため、作戦本部は1940年4月頃にベルリン市のティアガルテン通り4番地の邸宅に移され、「中央機関」と名付けられた[55]。後に、この障害者「安楽死」作戦がT4作戦と呼ばれるようになった由来である[55]

「中央機関」は次の4部署から構成されていた[56]
帝国精神病院事業団体(RAG)

公益患者輸送有限会社(GEKRAT(ドイツ語版)、〈ゲクラート〉)

公益保護施設財団

精神病院中央清算事業団

このうち、財団と事業団が財政部門に相当、有限会社は移送部門、事業団体が実施部門に当たる[56][1]。財団は、T4作戦の資金や物資 (消毒薬や殺害用の鎮静剤など) の調達、患者殺害後の金歯・装飾品などの管理・利用、会計検査、事業団は会計監査が担当だった[56]。RAGは殺害対象患者の把握、「中央機関」の医療・医学関連の業務全般を、GEKRATは、各地の精神病院から中継精神病院 (世間から患者殺害を把握させないようにするために、殺害精神病院へ移送する前にいったん患者を収容した精神病院) や殺害精神病院へ殺害対象者を移送するスケジュールの調整・手段の確保・維持を担当した[56]。周辺住民から「灰色のバス(ドイツ語版)」と呼ばれるようになる、殺害患者移送用のバスの管理はGEKRATが実施していた[56]。「中央機関」は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており[57]、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた[2]

後述のように、T4作戦自体はヒトラーの命令で1941年8月24日に中止される。しかし、中止されたのはT4作戦だけであり、「中央機関」はその後も存続し、T4作戦とは別形式で精神病患者や障害者の大量殺害は続けられた[58]。前述の「子ども安楽死」もT4作戦中・停止後も続けられた[59]

殺害対象者は全般に「精神薄弱」、統合失調症患者やてんかん患者が多かったが[60]、それ以外に、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた[61]。T4作戦で「中央機関」が対象者把握のために調査したデータを見ても、遺伝子性疾患子孫予防法で遺伝性とされた病の患者で、長期入院している者を殺害候補としていたことが推測できる[60]

T4組織の鑑定人だったヴェルナー・ハイデとニチェらは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて「処分者」を決定した[1][62]。殺害対象の鑑別には、40人余りの医師が「中央機関」の協力者としてかかわった[63]。ただし、鑑別は直接患者を診察したのではなく、「中央機関」が集めた書類上のデータだけを見て判断した[64]。当事者の証言によれば、1日当たり100人のオーダーで処理しており、殺害対象の判断は形がい化していたことが見て取れる[64]。「処分者」は、「灰色のバス」(郵政省から譲られた灰色に再塗装されたバス) に乗せられ、「処分場」と呼ばれる施設に運搬された。
障害者殺害の開始

古い研究では、ナチス党麾下のドイツ国による障害者殺害はポーランド侵攻 (1939年9月1日) 後にドイツ本国で始まったと考えられていて、障害者殺害の実験は1940年1月半ばにブランデンブルクの旧監獄施設を使い、一酸化炭素を用いたと説明されてきた[65]。が、その後の研究により、実際にはもっと早くから本格的に実施されていただけでなく、実施場所も国外のポーランド領内のポズナニだったことが明らかにされている[66]。ポーランド侵攻後ドイツによる占領行政が始まり、障害者施設の管理者や施設ベッドを「替える」のに合わせて障害者が銃殺された[66]。その後もポーランド領内で精神病患者の殺害は続く。

9月29日からはブロンベルク近郊のコツボロフ精神病院で2342名が殺害された他、9月から10月の間にブロンベルク郡のスヴィッチェで1350人の患者が射殺された[67]。同年10月には同様に、ポズナニ近郊の要塞を使って、一酸化炭素チクロンBを併用した患者殺害の実験が実施されたこともわかっている[65]。実験を実施したのはアインザッツグルッペンである[65]。1939年末には、ヘルベルト・ランゲ指揮下にあった通称「ランゲ特別部隊(ゾンダーコマンド)」[# 11]が移動式の殺害用トラックを開発、1940年初めにはトラックの排気ガスを使った精神病患者の殺害が始まった[65]。T4作戦初期に使用されたトラックの排気ガスによる患者殺害の手法は、後にユダヤ人の抹殺に応用されていく。

T4作戦が開始されてからの障害者のガス殺は1939年から翌1940年にかけての冬に始まり、まずポーランドで1万から1万5千人にのぼる障害者が殺害された[65]。ドイツ国内では1940年4月15日に障害者の大量処刑が始まった[68]。この時の犠牲者はユダヤ人だった[69]。同年6月からは徹底的な殺害が始まる[69]。ハダマー殺害精神病院には、トービアス芸術映画会社が入り込み殺害前のユダヤ人障害者を撮影、この時のフィルムには「人間の屑」というタイトルが付された[69]

殺害対象は、精神病罹患や身体障害者という観点だけから選別されたわけではない。働けるか働けないか、家族との関係が希薄かどうか、医師や看護婦にとって「面倒な」患者かどうか、身の周りのことを自分でできるか、といった項目も調査対象になり、また働けても単純労働しかできないのであれば低評価され殺害される可能性が高まった[70]。殊にナチスの優生思想が極端に経済コストの観点から判断されていたことはよく知られている。ナチス時代の医師や官僚・政治家が、すぐにコスト計算に訴えて病人や障害者を厄介者扱いする例には事欠かない。

殺害対象に指定された者は、各地の精神病院から一旦中継精神病院へ移送され、そこにしばらくの間入院させられた。中継精神病院に入院させたのは、殺害場所である殺害精神病院へ直接移送することを避けることで、政府が障害者を殺害していることを知られにくくするためだった。

安楽死専用の施設は、ハルトハイム安楽死施設、グラーフェネック安楽死施設(ドイツ語版)、ブランデンブルク安楽死施設(ドイツ語版)、ベルンブルク安楽死施設(ドイツ語版)、ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(ドイツ語版)、ハダマー安楽死施設(ドイツ語版)の6つがあった[71]。このうちハルトハイムとグラーフェネックは元は障害者のための施設、ブランデンブルクは監獄、ベルンブルク、ピルナ=ゾンネンシュタイン、ハダマーは精神病院で、いずれも1940年になってからガス室や大型で強力な焼却炉が設置され、殺害専門の精神病院として稼働し始めた[72]。ハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した[28]


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