T4作戦
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

第1位に入選したのは、ヴィルヘルム・シャルマイヤー(ドイツ語版)の『民族歴史上の遺伝と選択、新しい生物学に基づく国家学的研究』である[18]。シャルマイヤーはプレッツとは違い人種差別思想とは無縁だったため、ナチスが力を増すにつれアルフレート・グロートヤーン(ドイツ語版)・ヘルマン・ムッカーマン(ドイツ語版)といった非人種差別主義の優生学者たちの学派と共に次第に影響力を失っていったが、ヴァイマル共和国時代までは人種衛生学の主要な指導者の1人だった[19]

20世紀初頭に1度広まりかけた社会的ダーウィニズムは、1910年代になってからは、「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念に発展[20]、更に1920年代になって再び社会にはびこるようになった[21]。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}カール・ビンディングアルフレート・ホッヘ

1920年代に出版されて社会に大きな影響を与えた優生思想の著作として、カール・ビンディング (法学博士・元ライプチヒ大学学長) とアルフレート・ホッヘ(ドイツ語版) (医学博士・フライブルク大学教授・精神科医) の共著による『生きるに値しない生命の根絶の解禁』(1920年刊) [# 3]とエルヴィン・バウアー、オイゲン・フィッシャー、フリッツ・レンツの共著による『人類遺伝学と民族衛生学の概説』(1923年改訂増補版) が挙げられる。

『人類遺伝学と民族衛生学の概説』は、ミュンヘン一揆の失敗によって有罪判決を受けランツベルク要塞に収監されていた時期にヒトラーが読んで『我が闘争』に利用したと言われている著作である[22]。同書が『我が闘争』に影響を与えたことは、共著者の1人フリッツ・レンツ(ドイツ語版)が認めている[22]。レンツは後にナチスに入党することからもわかるように、ナチスの思想に近い学者だった。

また、ビンディングとホッヘによる『生きるに値しない生命の根絶の解禁』は、重度精神障害者などの安楽死を提唱した著作である。

1920年代末には、ドイツの一般大衆は、障害を持つことは恥だとの認識を持つようになっていた[23]。また、障害者は生きるに値しないと見なされた[23]

1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン自由州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出された[24]。この法案は、パーペン首相が画策したプロイセン・クーデターの混乱のために成立こそしなかったが[25]、1933年7月の遺伝子性疾患子孫予防法[# 4]の原型になった点で大きな画期となった[26]

ナチ党の権力掌握後、「民族の血を純粋に保つ」というナチズム思想に基づいて、遺伝病精神病者などの「民族の血を劣化させる」「劣等分子」を排除するべきであるというプロパガンダが開始された。このプロパガンダでは遺伝病患者などにかかる国庫・地方自治体の負担が強調され、これを通じてナチス政権は「断種」や「安楽死」の正当性を強調していった[3]。例えば、1935年から1937年にかけて、ナチス人種政治局は精神障害者の「安楽死」を準備するため、プロパガンダ用のサイレント映画を5本製作、ドイツ国内の映画館で上映し、大衆に精神障害者に対する恐怖心を植え付けるとともに、障害者を「社会の屑」として描くことを目論んだ[27]

1933年7月14日には遺伝子性疾患子孫予防法 (断種法と通称されている) が制定され、断種が法制化された[28]。1933年の断種法は世界的にも関心を呼び、世界の医学界はこの法律を支持した[29]。同法は1935年6月に改正され、母体保護を目的とした中絶を合法化すると同時に、優生学的な理由による中絶も併せて合法化された[30]
T4作戦以前の障害者殺害

ナチス時代のドイツで実行された障害者殺害計画の中で最も著名なのがT4作戦だが、それ以前にも障害者の殺害が実施されていたことは見逃されがちである。

意図したものだったのかどうかは議論の余地があるが、既に第1次世界大戦中にドイツで精神病患者が大量に餓死していたことはほとんど知られていない。第1次世界大戦中に公立病院で餓死した精神病患者は約7万人で[31]、これはT4作戦で殺害されたと推測されている精神病患者の数にほぼ等しい[32]ヘルマン・パウル・ニッツェ

ヒトラー政権に入ってからは、遅くとも1936年には精神障害者の餓死による殺害が実施されている。国家主導による殺害ではなかったが、ラントや個別の病院のレベルではT4作戦以前に既に精神病患者の「安楽死」政策は進んでいた[33]。1936年にはザクセン州のピルナ=ゾンネンシュタイン精神病院で、「生産性のない」精神病患者に貧栄養食を与える施策が進められていた[33]。これは、精神科医で同病院長だったヘルマン・パウル・ニチェ(ドイツ語版)[# 5]が初めて導入したものである[33]。公立病院の支出を抑制するというのが導入の理由だったが、精神病院では飢餓が日常化し死亡率も上昇した[33]。同精神病院では、T4作戦の中で殺害専門の精神病院として多くの障害者が殺された。

その他、ザクセン州では定員を越える精神病患者を収容しなければならない事態に直面しており、そのため患者のケアはおざなりになりがちだった上、ナチ党員で親衛隊員でもあった精神科医アルフレート・フェルンホルツ(ドイツ語版)が1938年にザクセン内務省民族保護課長になってからは更に状況は悪化した[33]。フェルンホルツは州内の公立の精神病院に対して、同様に、働くことのできない患者には栄養のない食事を与えるように指示を出したためである[33]フィリップ・ボウラーカール・ブラント

その後の障害者「安楽死」計画で重要なものとして「子ども安楽死」の名前で知られる殺害計画が挙げられる。「子ども安楽死」は障害者の組織的で大規模な殺害計画としては最初のものである。

「子ども安楽死」が始まるきっかけになったのは、1938年から1939年頃にライプツィヒで起きたある事件である。この事件がきっかけで「子ども安楽死」と呼ばれる、身体障害者の子どもを対象とした「安楽死」が実行されるようになったと言われている[36]。「子ども安楽死」はT4作戦の直接的な祖先である。

ライプツィヒの事件の概要は次のようなものだった。

1938年末か1939年の初めころにある人物が依頼を持って、ライプツィヒ大学医学部小児科教授のヴェルナー・カーテル(ドイツ語版)を訪問してきた[36]。依頼の内容は、その人物の子供かもしくは親戚の子供が重い障害を持っていて、将来生きていくことができないと思い、「安楽死」させてもらいたいというものだった[36][# 6]。もちろん、そのようなことは殺人罪につながるためカーテルは依頼を断ったが、この人物は今度はヒトラーに直訴した[36]。この嘆願を受けて、障害児の「安楽死」計画がただちに始まった[36]

ヒトラーは自分の侍医だったカール・ブラント親衛隊軍医)をライプツィヒに派遣してカーテルらと協議させる一方、精神障害や身体障害を持つ子供の「安楽死」の実施のためにブラントと総統官房長のフィリップ・ボウラーに対し、個別の案件について障害児を「安楽死」させるための権限を与えた[38]。権限は法律的な裏付けのない超法規的なものである[38]。ヒトラーは命令を書面ではなく口頭で行うことを好んだので、権限の委譲はこの時も口頭によるものである[38][39]。訴えを審議したボウラーとブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった[40]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:166 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef