T4作戦
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ガーレンは7月13日から8月3日にかけて政府を批判する説教を3回行い[27]、特に8月3日の「生きるに値しない生命の抹殺」を批判した説教[27]はT4作戦関連の文献では有名である。フォン・ガーレン司教

ガーレンは説教の中で以下のように述べた[87][# 13]。(前略) 哀れな、守る術なき患者が遅かれ早かれ殺されるという事を予期することである。何故なら、彼らは「生きる価値がなくなった」と担当の役所や委員会が判定しているからである。そして彼らは、この判定によれば「非生産的国民」だからなのである。……君も私も、私たちが生産的である間だけ、生産的であると他者から認められる間だけ生きる権利があるというのであろうか? もし「非生産的な」人間は殺してもよいという原則がたてられ使われるとすれば、年とった者、老衰した者すべては何と痛ましいことになることか! もし非生産的人間を殺してもいいなら、生産過程において力を尽くして働いた結果、犠牲になった病弱者は何と痛ましいことか。もし非生産的同胞を暴力で排除してよいものなら、戦争負傷者、身体不自由者、傷病兵として故郷へ帰ろうとする私たちの勇敢な兵士たちは何と痛ましいことか。もしひとたび、人間が「非生産的な」同胞を殺す権利を持ったら――たとえまず哀れな守る術なき精神病者に関してだけであろうと――、そうすれば原則的にはあらゆる非生産的な人間への殺人、すなわち不治の患者、労働と戦争の負傷者の殺人、そしてもし私たちが年をとり老衰し、非生産的になる時には私たちすべての者の殺人が自由に許されることになるのだ。—フォン・ガーレン、クレー『第三帝国と安楽死』p.449. (引用文献の原文では「原則的には」の箇所に傍点が付いている。)この犯罪が実際に容認され、罰せられないままであるなら、私たちの創造主である神が稲妻と雷の轟くシナイ山で「汝、殺すべからず」と宣言し、人類の良心に最初に刻みこんだ神の聖なる戒めを破壊するだけでなく、そのことは人類にとっての災い、ドイツ国民にとっての災いそのものです。—フォン・ガーレン、スザンヌ・E・エヴァンス 著、平沼博正・一井崇・野村実・岡花祈一郎・小西豊 訳『障害者の安楽死計画とホロコースト』クリエイツかもがわ、2017年12月31日、68頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-4-86342-229-2。 

ガーレンは刑法190条による告発も行った[89]。注意すべき点は、ガーレンの「安楽死」政策への批判の直接的原因が、政府による障害者の殺害に対する怒りにあったわけではないことである[27]。ガーレンの政府批判は直接的には、聖職者に対するゲシュタポの介入、特にミュンスターで起こった修道院の閉鎖がゲシュタポによるものだったことにある[27]。「安楽死」政策への批判は、ゲシュタポを擁護する政府への批判材料の1つとして行われたのであり、ガーレンにとって最優先課題だったわけではない[27]

とは言え、教会の指導者がはっきりとナチスに反旗を翻した事実は大きかった[86]。この説教がきっかけで複数の司教が「安楽死」に対して個別に抗議の声をあげ始めたが、当初ヒトラー政権は説教を途中で切り上げさせたうえで逮捕したり、ゲシュタポを使って逮捕するなどして取り締まろうとした[90]

ガーレンの説教は、謄写版で何千部と印刷され人から人へと渡っていった[91]。連合国側にもその内容が知られ、イギリスが飛行機でドイツ人向けにビラを撒くまでになった[91]。ヴァルター・ティースラー(ドイツ語版) (国家社会主義の宣伝および国民啓蒙のための帝国同盟指導者) はマルティン・ボルマンに対し、 ガーレンを絞首刑にするよう提案したが、ヒトラーは同意しないだろうとの理由で却下された[92]。ティースラーはゲッベルスにも同様の提案をしたが、教区内の住民の反発を恐れたためやはり却下された[92]。1941年夏の終わりまでには、多くのドイツ国民が「安楽死」計画に不安を覚えるようになっており、ヒムラーでさえヒトラーに対してT4作戦の中止を勧めている[90]

ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた[93]。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。
「T4」中止後の安楽死政策ハダマー殺害精神病院 (1941年)

T4作戦への批判が高まったことから1941年8月24日、ヒトラーは安楽死の中止を口頭で命令した[94][# 14]。この中止命令により、安楽死政策そのものは公式的に中止されたと公には受け取られたものの[95]、対象は6か所あった殺害精神病院での殺害の停止とガス殺の禁止だけだった[96]。更に、実際に障害者の殺害が中止されたのはハダマー殺害精神病院1か所だけで、ドイツ人の障害者はガス殺されなかったものの、残りの殺害精神病院ではユダヤ人の障害者を対象にしてその後も殺害し続けた[97]。ピルナ=ゾンネンシュタインおよびベルンベルク殺害精神病院のガス室が稼働停止するのは1943年春のことで、14f13作戦が中止になったのと同時期である[98]。ハルトハイム殺害精神病院の停止は更に遅く、1944年末までマウトハウゼン強制収容所の附属ガス室として稼働、それまで障害者を殺害し続けた[98]ヴィクトール・ブラック

それ以外の精神病患者の収容施設では医師看護師による患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で続行されるばかりか増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[99]。「野生化した安楽死」あるいは「野蛮な安楽死」という用語は、1946年のニュルンベルク医師裁判で裁かれたヴィクトール・ブラック(ドイツ語版)が最初に用いたと言われている[100]。ブラックはT4作戦で重要な役割を担っていたので、T4作戦後の「安楽死」を「野蛮」と呼ぶことで、T4作戦の重大性を軽く見せようとして用いたのだと言われている[100]。かつては「野蛮な安楽死」が普通に使われていたが、研究が進んだ1990年代になってからは、より実態に即した「地域の安楽死」「地域化した安楽死」「分散した安楽死」という言い方が使われるようになっている[100]

また「作戦中止」後にT4作戦の職員はいわゆる絶滅収容所に配置され、かれらの伝えたガス殺・死体焼却・施設のカモフラージュに関する技術がホロコーストに利用された[99]

1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデンを任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦(ドイツ語版)が始まり、医療施設から患者が大規模に移送された[101][102]

また、「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、労働を嫌悪する労働忌避者、ジプシー(シンティ・ロマ人)、精神病質者などがその対象となった[103]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人チェコ人予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種とされた人々(ジプシーロシア人ウクライナ人ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[104]。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務を強いられていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[104]


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