T4作戦
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例えば、1935年から1937年にかけて、ナチス人種政治局は精神障害者の「安楽死」を準備するため、プロパガンダ用のサイレント映画を5本製作、ドイツ国内の映画館で上映し、大衆に精神障害者に対する恐怖心を植え付けるとともに、障害者を「社会の屑」として描くことを目論んだ[27]

1933年7月14日には遺伝子性疾患子孫予防法 (断種法と通称されている) が制定され、断種が法制化された[28]。1933年の断種法は世界的にも関心を呼び、世界の医学界はこの法律を支持した[29]。同法は1935年6月に改正され、母体保護を目的とした中絶を合法化すると同時に、優生学的な理由による中絶も併せて合法化された[30]
T4作戦以前の障害者殺害

ナチス時代のドイツで実行された障害者殺害計画の中で最も著名なのがT4作戦だが、それ以前にも障害者の殺害が実施されていたことは見逃されがちである。

意図したものだったのかどうかは議論の余地があるが、既に第1次世界大戦中にドイツで精神病患者が大量に餓死していたことはほとんど知られていない。第1次世界大戦中に公立病院で餓死した精神病患者は約7万人で[31]、これはT4作戦で殺害されたと推測されている精神病患者の数にほぼ等しい[32]ヘルマン・パウル・ニッツェ

ヒトラー政権に入ってからは、遅くとも1936年には精神障害者の餓死による殺害が実施されている。国家主導による殺害ではなかったが、ラントや個別の病院のレベルではT4作戦以前に既に精神病患者の「安楽死」政策は進んでいた[33]。1936年にはザクセン州のピルナ=ゾンネンシュタイン精神病院で、「生産性のない」精神病患者に貧栄養食を与える施策が進められていた[33]。これは、精神科医で同病院長だったヘルマン・パウル・ニチェ(ドイツ語版)[# 5]が初めて導入したものである[33]。公立病院の支出を抑制するというのが導入の理由だったが、精神病院では飢餓が日常化し死亡率も上昇した[33]。同精神病院では、T4作戦の中で殺害専門の精神病院として多くの障害者が殺された。

その他、ザクセン州では定員を越える精神病患者を収容しなければならない事態に直面しており、そのため患者のケアはおざなりになりがちだった上、ナチ党員で親衛隊員でもあった精神科医アルフレート・フェルンホルツ(ドイツ語版)が1938年にザクセン内務省民族保護課長になってからは更に状況は悪化した[33]。フェルンホルツは州内の公立の精神病院に対して、同様に、働くことのできない患者には栄養のない食事を与えるように指示を出したためである[33]フィリップ・ボウラーカール・ブラント

その後の障害者「安楽死」計画で重要なものとして「子ども安楽死」の名前で知られる殺害計画が挙げられる。「子ども安楽死」は障害者の組織的で大規模な殺害計画としては最初のものである。

「子ども安楽死」が始まるきっかけになったのは、1938年から1939年頃にライプツィヒで起きたある事件である。この事件がきっかけで「子ども安楽死」と呼ばれる、身体障害者の子どもを対象とした「安楽死」が実行されるようになったと言われている[36]。「子ども安楽死」はT4作戦の直接的な祖先である。

ライプツィヒの事件の概要は次のようなものだった。

1938年末か1939年の初めころにある人物が依頼を持って、ライプツィヒ大学医学部小児科教授のヴェルナー・カーテル(ドイツ語版)を訪問してきた[36]。依頼の内容は、その人物の子供かもしくは親戚の子供が重い障害を持っていて、将来生きていくことができないと思い、「安楽死」させてもらいたいというものだった[36][# 6]。もちろん、そのようなことは殺人罪につながるためカーテルは依頼を断ったが、この人物は今度はヒトラーに直訴した[36]。この嘆願を受けて、障害児の「安楽死」計画がただちに始まった[36]

ヒトラーは自分の侍医だったカール・ブラント親衛隊軍医)をライプツィヒに派遣してカーテルらと協議させる一方、精神障害や身体障害を持つ子供の「安楽死」の実施のためにブラントと総統官房長のフィリップ・ボウラーに対し、個別の案件について障害児を「安楽死」させるための権限を与えた[38]。権限は法律的な裏付けのない超法規的なものである[38]。ヒトラーは命令を書面ではなく口頭で行うことを好んだので、権限の委譲はこの時も口頭によるものである[38][39]。訴えを審議したボウラーとブラントは、その後の安楽死政策の中心人物となった[40]

ライプツィヒの事件は後に「私は告発する(ドイツ語版)」という安楽死政策の正当化を訴えるプロパガンダ映画のもとになった[40][# 7]
「T4」による安楽死政策安楽死施設のあったハルトハイム城ハルトハイム城1階のガス室ハルトハイム城1階の死体置き場

T4作戦の必要性をヒトラーに認識させたのは、アルベルト・ボルマンとその上司だったフィリップ・ボウラーの2人だったと言って過言ではない[42]。ボルマンはヒトラーの副官で、同じくヒトラーの副官だったマルティン・ボルマンの弟である[42]。アルベルトは、ヒトラーに送られてくるファンレター・投書・陳情書を扱っていたため世論の動向に詳しく、ヒトラーに対して一定の影響力を持っていた[42]

後述のように、T4作戦の正式な発令はまだ先の話になるが、同作戦の準備が始まるのは「子ども安楽死」の開始時期とほとんど同時である。ヴェルナー・ハイデ(ドイツ語版) (安楽死中央機関医療部長、元ヴュルツブルク大学教授) が1961年10月25日に行った供述によると、ヒトラーは遅くとも遺伝子性疾患子孫予防法 (1933年7月成立) の頃から、精神病患者の殺害について繰り返し計画を練っており、1939年7月の時点で既に厖大な準備がなされていると、ボウラーが語ったという[43]。また、医者裁判の中でカール・ブラントも、遅くとも1933年以降、ヒトラーは非自発的な「安楽死」を志向していたことで知られていた、と証言している[27]。ラマースもまた、1933年に遺伝子性疾患子孫予防法が議論されていた時期、ヒトラーは精神病患者の殺害について考えていたと回想している[27]

1939年2月17日には、リンツ近郊にあるハルトハイム療養所がナチスによって接収された[44]。同療養所は1889年にカミロ・ハインリッヒ・シュタルヘムベルク侯爵により、貧しい「精神薄弱者と白痴」のための病院として寄贈された病院である[44]。この療養所はT4作戦において、6か所あった精神病患者を殺害する施設の1つとして稼働することになる。T4作戦の殺害精神病院としてハダマー殺害精神病院(ドイツ語版)が頻繁に紹介されるが、精神病患者の大部分はハルトハイム殺害精神病院で殺されている[45]。同年5月24日には、ミュンジンゲン郡グラーフェネックの身体障害者施設 (シュトゥットガルト慈善協会所属) の見分が実施されている[44]。この施設もT4作戦において、殺害精神病院として稼働する。1939年に明文化されたT4作戦の命令書。“党指導者ボウラー氏と医師ブラント博士に、病気の状態が深刻で治癒できない患者を安楽死させる権限を与える。―アドルフ・ヒトラー”

1939年9月1日、ヒトラーは日付の記されていない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」に対して「慈悲死[# 8]」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者[# 9]」としての地位をボウラーとブラントに与えた[40][46]。ヒトラーは10月末日にこの命令書に署名している[46]。命令書に書かれている9月1日の日付は後からさかのぼって書かれたものだと考えられている[47]。なぜ日にちをさかのぼらねばならなかったのかその理由は現在もわかっていない[47]。この措置は明文化された法律によるものではなく、根拠法をもたなかった[48]。法務省は1939年8月11日には死の幇助と「生きるに値しない命の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが[49]、いずれもヒトラーによって拒否された[50]


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