T4作戦
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しかし、他のヨーロッパ諸国の場合と同様、キリスト教の倫理観から否定的な見解が多く、大きな声にはならなかった[6]

潮目が変わりだすのは19世紀末から20世紀初頭のことで、ドイツにダーウィニズム、とりわけ社会的ダーウィニズムが流入してからのことだった。当初は重病人の尊厳や同情から始まった安楽死の議論は社会的ダーウィニズムに汚染され、民族や社会といった全体に貢献するか否かという基準で判断されるようになり、全体に対して害悪であると見なされた者は抑圧して構わない、場合によっては殺害してもよい、という考えが次第に広まるようになった[7]。そのような思想の好例としてニーチェが挙げられる。障害者抹殺を論ずる際にニーチェは真っ先に好んで引用される[8]。少なくともドイツにおいては、障害者殺害を正当化する論者に対するニーチェの影響は甚大である。

ニーチェは、「病人や弱者は社会を弱体化させる有害な存在であるから、積極的に殺害すべき」だと主張した。それゆえニーチェは、人の平等を唱え、弱者に同情を寄せるキリスト教を、「ヨーロッパを弱体化させる元凶」として攻撃、全否定した。それが最も明白な言葉で書かれているのが、最晩年に書かれた『アンチクリスト(ドイツ語版)』である。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}弱者と出来損いは亡びるべし、――これはわれわれの人間愛の第一命題。彼らの滅亡に手を貸すことは、さらにわれわれの義務である。—ニーチェ、『アンチクリスト』二 (西尾幹二訳)[9]キリスト教はすべての弱者、賤者、出来損いの味方に.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}組(ママ)し、強い生命が持っている自己保存能力に抗議(??)することを己れの理想として来たのだった。—ニーチェ、『アンチクリスト』五 (西尾訳、傍点は引用文献のまま。)同情はごく大まかに言って発展の法則を、つまり淘汰(??)の法則を妨げる。同情は没落しかかっているものを保存する。生の廃嫡者、生の犯罪人のために防戦する。同情はありとあらゆる種類の出来損い的人間を生の中に引き留め(????)、そうした人間を夥しく地上に溢れさすことによって、生そのものに陰惨でいかがわしい表情を与える。—ニーチェ、『アンチクリスト』七 (西尾訳、傍点は引用文献のまま。)

消極的優生思想は最晩年に達した境地ではなく、ニーチェはずっと以前から優生思想の支持者だった。寓話の体裁をとったあいまいな解釈を許す表現ではあるが、ニーチェは既に『悦ばしき知識(ドイツ語版)』の中で「聖なる無慈悲」という考えを披露している[# 2]。聖なる残酷(?????)――ある聖者の許(もと)に、生まれたての子供を抱いた男がやってきた。「この子供をどうしたらいいでしょう?」とかれは言った。「これは見るもあわれで、できそこないで、死ぬだけの生命も持っていないくらいです。」――「殺すのだ」と聖者は恐ろしい声で叫んだ。「殺して、そして、お前の記憶にのこるように三日三晩のあいだ自分の腕に抱いているがいい、――そうすればお前は二度と子供を拵えないだろう、――拵える時が来るまで。」――男はこれを聞いて失望して立ち去った。多くのものは残酷なことをすすめたといって、聖者を非難した。聖者は子供を殺すことをすすめたのだから。「だが子供を生かしておくのは、もっと残酷ではないか?」と聖者は言った。—ニーチェ、『華やぐ智慧』第2書73 (氷上英廣訳[10]、傍点は引用文献のまま。)

「聖なる無慈悲」は、「子ども安楽死」(後述) の実行者の1人であるヴェルナー・カーテル (ライプツィヒ大学医学部小児科教授) が短く引用して、「安楽死」の正当化の根拠として利用された[11]。「聖なる無慈悲」は障害者「安楽死」を議論するときに例外なく触れられる箇所である[12]

また、『偶像の黄昏(ドイツ語版)』のなかでニーチェはきわめて直接的な表現によって弱者を貶めた。その中でニーチェは「病人は社会の寄生虫」だと断定している。医師たちのための道徳(??????????)――病人は社会の寄生虫です。ある状態に置かれた場合には、生き永らえることが無作法です。生きる意味、生きる権利(??)が失われてしまった後で、医師や病院の処置に女々しく頼って植物人間として生きつづけるのは、社会の側において深い軽蔑を招くことになりかねません。(中略) ――処方箋を示すのではなく、毎日、自分の患者に対する新しい嘔吐(??)の一服を盛るべきでありましょう。—ニーチェ、『偶像の黄昏』ある反時代的人間の逍遥 36 (西尾訳[13]、傍点は引用文献のまま。)我々の道は上へ行く、種属を越えて超種属へアルフレート・プレッツ

このフレーズは、アルフレート・プレッツ(ドイツ語版) (人種衛生学の主唱者、ナチ党員、ドイツにおける優生思想の主たる指導者の1人) が著書『我が人種の有能者と弱者の保護』で引用している[14]。プレッツは、貧困は効率的に間引くのに丁度良い、生存競争を妨げるので病人や失業者の保護は必要ないと主張した人物である[15]

極めて皮肉なことに、「病人は社会の寄生虫である」と書いた4か月後、ニーチェは脳梅毒により精神に異常をきたし以後の10年余り狂人として家族の世話になって過ごした。エルンスト・クレーが著書『第三帝国と安楽死』の中で書いているように、ニーチェがナチス・ドイツの時代に生きていれば真っ先に殺害対象になっただろうことは疑いようがない[16]
社会ダーウィニズムの本格的展開・ナチスとの結合

20世紀初頭になるとドイツでは、社会的ダーウィニズムが優生学と結合し、人間の尊厳や価値を、経済的な生命観によって計ろうとする価値感、全体にとって有害な者を排除・殺害することを正当化する思想として次第に広まりだした。本来、優生学は遺伝や遺伝病を対象とした学問であり、優生学の生粋の専門家は遺伝病に限って断種を容認する議論をしたのに対して、優生学を専門としない論者は、遺伝病かどうかの厳密な区別をすることなしに、社会に対して有害だと恣意的に判断した少数者を社会から排除しようとした。特にドイツでは社会ダーウィニズムが民族主義・国家主義と結合した点が著しい特徴である。ヴィルヘルム・シャルマイヤー

ドイツにおける優生思想は当時のアメリカのそれとは性格が異なり、ドイツ帝国の時代から既に優生思想が経済性や財政効率性と強く結びついており、国家主義的傾向と密接に関係していた[17]。当時経済大国になりかけていたアメリカは、適者生存という観点から優生思想を楽観主義的に理解した。一方、ドイツの優生思想支持者は正反対で、「衰退を避け自分が生き残るために邪魔者を犠牲にする」という否定的な観点から優生思想を理解していた[17]

例えば1900年、フリードリヒ・アルフレート・クルップが「我々は血統理論の原理から何を学び得ることができるのか、国家の内政発展と立法に関連させて述べよ」というテーマで懸賞論文を募った[18]。このクルップの懸賞論文は優生思想が社会にどれほど強く影響を与えたかを示す例として有名である。

第1位に入選したのは、ヴィルヘルム・シャルマイヤー(ドイツ語版)の『民族歴史上の遺伝と選択、新しい生物学に基づく国家学的研究』である[18]。シャルマイヤーはプレッツとは違い人種差別思想とは無縁だったため、ナチスが力を増すにつれアルフレート・グロートヤーン(ドイツ語版)・ヘルマン・ムッカーマン(ドイツ語版)といった非人種差別主義の優生学者たちの学派と共に次第に影響力を失っていったが、ヴァイマル共和国時代までは人種衛生学の主要な指導者の1人だった[19]

20世紀初頭に1度広まりかけた社会的ダーウィニズムは、1910年代になってからは、「劣等分子」の断種や、治癒不能の病人を要請に応じて殺すという「安楽死」の概念に発展[20]、更に1920年代になって再び社会にはびこるようになった[21]。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}カール・ビンディングアルフレート・ホッヘ

1920年代に出版されて社会に大きな影響を与えた優生思想の著作として、カール・ビンディング (法学博士・元ライプチヒ大学学長) とアルフレート・ホッヘ(ドイツ語版) (医学博士・フライブルク大学教授・精神科医) の共著による『生きるに値しない生命の根絶の解禁』(1920年刊) [# 3]とエルヴィン・バウアー、オイゲン・フィッシャー、フリッツ・レンツの共著による『人類遺伝学と民族衛生学の概説』(1923年改訂増補版) が挙げられる。

『人類遺伝学と民族衛生学の概説』は、ミュンヘン一揆の失敗によって有罪判決を受けランツベルク要塞に収監されていた時期にヒトラーが読んで『我が闘争』に利用したと言われている著作である[22]。同書が『我が闘争』に影響を与えたことは、共著者の1人フリッツ・レンツ(ドイツ語版)が認めている[22]。レンツは後にナチスに入党することからもわかるように、ナチスの思想に近い学者だった。

また、ビンディングとホッヘによる『生きるに値しない生命の根絶の解禁』は、重度精神障害者などの安楽死を提唱した著作である。

1920年代末には、ドイツの一般大衆は、障害を持つことは恥だとの認識を持つようになっていた[23]。また、障害者は生きるに値しないと見なされた[23]

1930年代になると優生学に基づく断種が議論されるようになり、1932年7月30日にはプロイセン自由州で「劣等分子」の断種にかかわる法律が提出された[24]


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