T-34
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この項目では、ソ連の中戦車について説明しています。その他の用法については「T34」をご覧ください。

試作のみのソ連の軽戦車「T-34 (試作)」あるいは試作のみのアメリカの重戦車「T29重戦車#T34」とは異なります。

T-34/T-34-85T-34-85
ソミュール戦車博物館展示の戦後チェコ生産型。
性能諸元
全長8.15 m
車体長6.10 m
全幅3.00 m
全高2.72 m
重量32 t
懸架方式クリスティー方式
速度50 km/h整地
30 km/h(不整地
行動距離300 km
主砲54.6口径85mm戦車砲 S-53またはZiS-S-53(56発)
副武装7.62 mm DT機銃×2(1890発)
装甲
砲塔


前面 90 mm(曲面)

側面 75 mm 傾斜 20 °

後面 52 mm 傾斜 10 °

車体


前面 45 mm 傾斜 60 °

側面 45 mm 傾斜 50 °

後面 45 mm 傾斜 47 °

上面 20 mm

エンジン4ストロークV型12気筒水冷ディーゼル
500 馬力
乗員5 名
諸元はT-34-85(1944年型)のもの
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T-34/T-34-85(Т-34 テー・トリーッツァチ・チトゥーリィ)は、1939年に開発され第二次世界大戦から冷戦時代にかけてソビエト連邦を中心に使用された中戦車主力戦車の一つ[1]
開発
背景

1930年代前半に導入されたBTシリーズは、スペイン内戦(1936年?1939年)やノモンハン事件(1939年)の戦訓で機動力は申し分ないが、防御力に問題のあることが浮き彫りとなり、その快速性を受け継ぐ新たな中戦車が求められるようになった。そこで開発されたのがT-34である。

1939年の時点で、ソ連軍で最も数が多かった戦車はT-26軽戦車と、BTシリーズの快速戦車であった。T-26は、動きの遅い歩兵戦車で、戦場の歩兵と同じペースで進軍するように設計されていた。一方、BT戦車は巡航戦車で、敵の歩兵と戦うのではなく敵の戦車と戦うために非常に快速の軽戦車として設計されていた。少数のT-35などの多砲塔戦車も存在したが、いずれも装甲は薄く、小銃・機関銃の射撃に対しては耐弾性があったが、対戦車ライフルPaK 36 対戦車砲の攻撃には耐えられなかった。いずれも1930年代の初期からソ連が外国の設計を基にして開発したもので、T-26はイギリス製のヴィッカース 6トン戦車、BTはアメリカ人技術者ジョン・W・クリスティーの戦車が原型であった。
A-20左からBT-7M、A-20、T-34 1940年式、T-34 1941年式。年を追うごとの車幅拡大が見て取れる。

1937年、ソ連軍は技師のミハイル・コーシュキンをBT戦車の後継戦車開発チームのリーダーに指名し、その作業はハルキウ[注釈 1]のハリコフ機関車工場 (KhPZ) で行われた。

A-20型(別名BT-20)と呼ばれた試作戦車は、装甲の厚みを20 mm とし、45?mm 砲 M1934を装備し、ガソリンよりは燃えにくい軽油を用いたV型12気筒の新型エンジンであるV-2ディーゼルエンジンを採用した。また、BT戦車の8×2輪のコンバーチブル・ドライブ(道路を走る場合には履帯を取り外して車輪で走行できる機能)を継承し、A-20では8×6輪のコンバーチブル・ドライブを採用しており、これにより履帯無しでも走行できた(Zheltov 1999)。この特長により、1930年代の信頼性の低い履帯のメンテナンスや修理作業を大幅に削減でき、更に舗装道路上では時速85キロメートルでの走行が可能となったが、戦闘にはあまり役立たない特長であるとも言えた。結局、設計者らは空間と重量の無駄であると考えるようになった(Zaloga & Grandsen 1984:66, 111)。

A-20には、先行する研究(BT-IS および BT-SW-2 計画)から傾斜装甲を取り入れた。A-20は全方向が傾斜装甲で、これは垂直に立ててある装甲板と比べると、徹甲弾を弾いて逸らしやすい[2]
スペイン内戦やノモンハン事件の戦訓

日ソ国境紛争の1938年7月の張鼓峰事件や1939年のノモンハン事件で、ソ連軍は日本陸軍に対してBT-5、BT-7等多数の戦車を使用した。当時のソ連戦車は、日本軍の対戦車砲である九四式三十七粍砲[3]によって容易に撃破された。従来のソ連戦車は、日本歩兵の火炎瓶攻撃[4]を受けると容易に火災をおこした。当時のソ連戦車はガソリンエンジンを装備しており、被弾でガソリンに引火して火災を起こしやすく、 (Zaloga & Grandsen 1984:111)また車体塗装のペンキは可燃性で、火炎瓶攻撃で引火炎上しやすかった。スペイン内戦においても、共和派に供与されたT-26がフランコ派の火炎瓶攻撃や対戦車砲撃で大きな打撃を被った。さらには、装甲板をリベット留めした部分も脆弱であることが分かった[5]。リベット留めの装甲板は「破砕」(spalling)の問題につながった。これは、敵弾が当たった時、その弾そのもので戦車や乗員を無力化できなかったとしても弾が当たった時の衝撃でリベットや、断裂した装甲板の破片が車内に飛散し乗員を殺傷してしまう現象でもあった。

この戦訓から、赤軍指導部は以後戦車の塗料を不燃性のものとし、装甲板に電気溶接を採用し、ディーゼルエンジンを搭載するようになった。これらの戦訓はT-34開発に生かされることになった。また歩兵支援を重視する守旧派から、独立した戦車部隊の集中運用を主張する、トハチェフスキーゲオルギー・ジューコフが赤軍内部で主導権を握り、のちの独ソ戦における戦車用兵思想に影響を与えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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