T-26_(戦車)
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T-26 1933年型屋外展示されるT-26
性能諸元
全長4.65m
全幅2.44m
全高2.24m
重量9.4t
懸架方式リーフスプリング方式
速度28km/h
行動距離175km
主砲45mm戦車砲M1932
副武装7.62mm機関銃DT×1もしくは2
装甲砲塔防盾 25mm 全周 15mm
車体前・側面 15mm
エンジンGAZ T-26 空冷水平直列4気筒ガソリンエンジン
90馬力/66kW
乗員3名
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T-26は、第二次世界大戦前からソ連赤軍などで使用された軽戦車である。
概要

ソビエト連邦初の量産型軽戦車T-18の後継となるべき歩兵支援用軽戦車を目指し、T-19とT-20(コムソモーレツとは別物)が試作されたが、これらはエンジントラブルにより実用化には至らなかった。

1929年5月にソ連軍は、イギリスヴィッカース社が独自に開発していたヴィッカース 6トン戦車ライセンス生産する契約書にサインした。これは、V-26として15両が輸入され、新たな戦車開発のための参考となった。そして、いくつかの他の試作戦車とのトライアルの結果、改良を加えてT-26として採用され、レニングラードのボリシェビキ工場(第232工場)において国産化に入った。1932年からは、同じくレニングラードの第174工場も生産に加わった。

1931年-翌年にかけて、ヴィッカース 6トン戦車同様に1丁ずつのDT機銃を備えた銃塔2基を横並びに搭載した最初の型(1931年型)が量産された。これらの銃塔は互いに干渉するため、270度の限定旋回しかできない。後に、右銃塔にT-18で使われていたオチキス37mm戦車砲の国産型PS-1(M1928年型)を装備した型が作られた。1932年には、同じく右銃塔にB-3(5-K)対戦車砲ドイツでのラインメタルPaK 35/36 3.7cm対戦車砲の採用に先駆けてライセンス生産され、装備していたもの)の戦車砲型PS-2(1930年型)を搭載したものに変更された(後に同砲をBT-2用単砲塔に搭載したものがレニングラード攻防戦に登場するが、これは、双砲塔型からの現地改造車両である)。しかし、この砲は新型砲の採用により短期で生産を終えてしまったため、1933年型としてBT-5同様に新型砲塔と更に強化された45mm砲に換装されている。先行量産型は円筒形砲塔を搭載していたが、これはすぐに大型バッスルを持つ馬蹄形砲塔に代わり、同砲塔はBT-5戦車やBA-3BA-6装甲車に搭載された。バリエーションとして、鉢巻型無線アンテナのあるT-26TUもある。1935年には車体の接合に溶接が用いられるようになり、また、さらに後期の生産車では、砲塔後部に機銃のボールマウントが追加され、対空機銃の装備できる新型ハッチを持つなど、細部の異なるバリエーションがある。
実戦投入と改良型

スペイン内戦で共和国派側に提供されたT-26は、当時最強の対戦車戦闘能力を持つ45mm砲によって、ファシスト側に参戦したドイツI号戦車イタリアL3/33といった機銃しか持たない軽戦車豆戦車を圧倒した。スペイン内戦にて、共和国派のT-26がファシスト側のイタリア豆戦車を谷底に突き落とした事例は、世界最初の戦車対戦車の体当たり攻撃として知られている。また、1938年満州ソ連間の国境紛争である張鼓峰事件では、257両(他、BT-5が81両、SU-5自走砲が13両)が投入され、日本陸軍との戦闘で9両が完全撃破され76両が損傷(うち現地で修理可能な物39両)の損害を出している。損傷は日本陸軍によるものだけでなく(後に初期のT-34KVが陥るのと同様の)、工作精度の低さからくるギアボックスや乾式クラッチの故障によるものも多かったという。この後、ノモンハン事件でもBT戦車と共に日本陸軍相手に戦っている。

さらに、1937年型として、側面が傾斜した新型の「円錐型砲塔」タイプが登場。スペイン内戦火炎瓶攻撃を受けた経験から、エンジンの排気口に後方がメッシュ付きで開口したフードが付けられた。また、後には車体側面も傾斜装甲になった1939-40年型が登場している。

それ以前のノモンハンでも同様に火炎瓶によって撃破されているので、根本的な解決には至っていなかったようである。実際、冬戦争では、対戦車砲フィンランド兵の肉迫攻撃により大きな損害を出しており、途中で増加装甲を装着している。侵攻の困難さに直面したソ連は、少数のT-26を無線操縦無人戦車「テレタンク」に改造し、実戦投入するといった一幕もあった。

T-26は、出現当時は比較的強力な戦車であったが(後に少し強化されるが)、15mmという主装甲の薄さと88馬力のエンジンパワー不足による速度の遅さにより、ソ連軍戦車兵には評判が良いとはいえなかった。また、BT戦車同様に、機関部付近への榴弾の直撃でガソリンタンクが燃え上がることも多かった。それでも本車は1938年夏の段階で約8,500両、最終的に12,000両以上と言う、当時世界で最も多く生産された戦車となった。凡庸な性能に過ぎなかったT-26の最大の貢献は、戦車後進国であったソ連に、装甲車両の大量生産ノウハウを確立させたことであった。これは、ソ連が独ソ戦を戦い抜き、勝利する上で、大いに意味を持つことになった。手前はフィンランド軍に鹵獲使用された1933年型。
奥はヴィッカース6t戦車を武装強化したT-26Eで、車体機銃手席の天面装甲板に膨らみをつけた、フィンランド独自の改修がされている。

T-26は、1939年9月17日ソ連によるポーランド侵攻時と1941年6月22日の独ソ戦開戦時における、ソ連軍の主力戦車であった。これらは独ソ戦の初期に大変な損害を出した。ソ連軍は開戦時に弾薬や燃料を十分に配備しておらず、ほとんどは放棄または破壊処理された。しかし、これによりソ連軍は、T-26などの旧式装備を処分して、T-34などの新式装備に刷新できた、という面もある。生き残った車両はBT戦車と共に満州国境の守りに回され、1945年8月の満州侵攻の際に久々に実戦に参戦することとなる。ヨーロッパからのT-34などの移動が遅れたため、この時点で1,461両が実戦配備されており、戦闘や故障で全損34両、工場で修理可能なもの122両、現地で修理可能なもの33両の損害を出している。

ドイツ軍にも大量に鹵獲され、Pz.Kpfw T-26(r)として二線級任務に用いたり、一部は他の鹵獲軽戦車同様に砲塔を外して大砲牽引・弾薬運搬トラクターとして用いられた。フランスM1897野砲をドイツ軍が対戦車砲に改造した7.5 cm PaK 97/38を搭載した自走砲、7.5cm Pak97/98 BeutePanzer T-26という珍品も存在している。

フィンランド軍も鹵獲した本車を自国の戦力とした。装甲戦闘車両が不足していたフィンランドにとって、ソ連軍からの鹵獲車両は貴重で、特にT-26は各形式合わせて100両以上が鹵獲、独自の小改修を施された上で運用され、数的にはフィンランド戦車部隊主力戦車であった。また、先に輸入していたヴィッカース 6トン戦車にT-26の戦車砲を載せて強化、これをT-26Eと称して使用した。T-26Eは、砲塔が車体左寄りである通常のT-26と異なり、ヴィッカース 6トン戦車 Mk. E後期型(車体はMk. F規格)の車体なので、砲塔が車体右寄りである。ただしこれは、正規のT-26ではなく、ヴィッカース 6トン戦車の亜種に分類されるのが普通である。また、OT-26の砲塔と火炎放射器を撤去して、別の車輌の砲塔を搭載した独自の個体も存在した。
派生型

T-26軽戦車は大まかに分けて、

車体が3型式(双砲塔式のT-26A、単砲塔式のT-26B及びT-26C。T-26AとT-26Bは、原型のヴイッカース6トン戦車の車体をそのまま受け継いでいるが、T-26Cはアンダーターレットボックスの三方を傾斜装甲に換えている)。


砲塔がMシリーズで3種(双砲塔の1931年型(M1931)、単砲塔の1933年型(M1933)および1935年型(M1935)、1938年型(M1938)および1939年型(M1939))、OTシリーズで3種(Mシリーズの3種を、砲塔はそのままで、機関銃/戦車砲から火炎放射筒に換えた物。1931年型を使用したOT-26、1933年型を使用したOT-130、1938年型を使用したOT-133)の計6型式。


砲塔の位置は、Mシリーズで車体左側にオフセット、OTシリーズで車体右側にオフセット、されている。



SU-1
1931年試作された、密閉型の固定式戦闘室にPS-3 76.2mm榴弾砲7.62mm機銃DT 2挺を搭載した軽自走榴弾砲。最大装甲厚13mm。SUとは、キリル文字では「CY」と表記し、「самоходная (артиллерийская) установка サマホードナヤ・(アルティレリイスカヤ・)ウスタノーフカ」(自走砲の意)の頭文字を取ったもの。


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