2011年は開幕4番を務めたが、好不調がやや激しく、後藤光尊・李承Y・フランシスコ・カラバイヨに4番を譲り、6番降格やスタメンから外れる試合もあった。ファン投票で2年連続のオールスターに出場し、第3戦目にオールスター初本塁打を放つなど3安打の活躍で敢闘賞を受賞したが、後半戦でも調子は安定せず、8月16日の対ソフトバンク戦で3度の好機でボール球に手を出して凡退したことが響き惜敗したことで、監督の岡田彰布の怒りを買って二軍降格を味わった。最終的には134試合に出場してリーグ4位・チーム最多の85打点を記録したものの、本塁打数は前年の半分にも満たない16本塁打にとどまり、四番としては物足りない成績に終わった。シーズン最終戦後の岡田のインタビューにて成績が低調でありながら“お仕置きの4番”として最終戦に4番で起用していたことや「来年以降4番を打たすつもりはない」など痛烈な批判を浴びた[10]。
2012年は李大浩の加入もあり、開幕戦では6番で先発出場。オープン戦は不調に苦しんでいたものの、それまでの代名詞でもあったノーステップ打法をやめ、すり足打法にしたこと[11]で開幕から高打率を維持し、4月12日の対ロッテ戦では開幕11試合目にして12球団で最も遅いチーム第1号本塁打を放った。しかし、4月26日の対楽天戦で安打を放った際に左太腿裏の肉離れを発症し、登録抹消。万全でない状態ながらも交流戦から合流するも、5月20日の対ヤクルト戦で代打で決勝点となる内野ゴロを放った際に、左太腿裏の肉離れを再発して再度登録抹消となり、本格的な戦線復帰は6月26日まで先送りとなった。復帰後も3割超の打率、8月には月間6本塁打を放つなど好調をキープしていたが、終盤は27打席連続無安打を記録する等やや成績を落とし、最終的に103試合の出場で規定打席に到達せず、10本塁打56打点に留まったが、打率は.280、得点圏打率は.381という成績を残した。また、対右投手は.304の成績であったのに対し、対左投手は.237と左投手にやや苦戦した。オフの11月6日に、侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」で日本代表入りを果たした[12][13]。
2013年は更なる飛距離アップを求め従来のノーステップ打法から右足を上げる一本足打法に改造。開幕戦を7番で先発するも打率2割台前半と低調な成績が続き、5月3日には左太もも裏の故障で登録抹消される。6月28日に復帰するが、その後も復調することはなく、8月9日には成績不振による登録抹消となる。二軍調整中の8月にも右手中指の靭帯損傷の怪我を負うなど度重なる故障に苦しんだ[14]。シーズン終盤の10月に再昇格し、最終戦の10月13日の楽天戦では本塁打を放ったが最後まで不振に苦しみ、最終的に58試合出場、打率.222、4本塁打、18打点とレギュラー定着後以降では最低の成績に終わった。シーズンオフの契約更改では年俸25%の大幅ダウンとなる1800万円減の5500万円でサインした。
2014年は復活を期すシーズンとして、104kgあった体重を98kgに減量して臨んだが、開幕直前に腰痛を発症し開幕一軍を逃す。その後、開幕から2週間出遅れて4月12日に初出場すると以降は主に「5番・一塁手」として定着する。以降打率は2割台後半をキープし、本塁打も着実に積み重ね、9月14日の日本ハム戦には4年ぶりとなる20本塁打を放った。10月12日のクライマックスシリーズファーストステージ第2戦では8回裏に逆転の3点本塁打を放ち、チームにクライマックスシリーズ初勝利をもたらした[15]。また、一塁手として自身初のゴールデングラブ賞を受賞した[16]。
2015年3月24日に、モデルのますあやと結婚したことが報じられた[17]。シーズンでは、不調や負傷等で3度登録抹消されるなど、最終的に105試合(416打席)の出場にとどまり、不本意な結果に終わった[18]。2015年のシーズン最終戦の試合後には、この年限りでの退団が決まった坂口智隆のタオルをファンが待つライトスタンドに掲げ“無言のアピール”で自身の思いを形にしたこともあった[19]。
2016年は左アキレス腱痛の影響でキャンプは二軍スタートとなる[20]。開幕は一軍で迎えたが、6試合で無安打と結果を残せなかったため4月3日に登録抹消され、4月29日に一軍に昇格。シーズン前半は5番であったが、7月3日の対ロッテ戦以後は4番に定着して、チームトップの20本塁打、76打点を記録するなど、復活の兆しを見せたシーズンとなった[21]。守備位置は左翼手(70試合)が中心であったが、一塁手(43試合)、指名打者(9試合)での出場もあった。12月8日、契約更改を行い、2019年シーズンまでの3年の延長契約(変動年俸制。