T-岡田
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T-岡田(岡田 貴弘)オリックス・バファローズ #55
2016年5月17日 こまちスタジアム
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府吹田市
生年月日 (1988-02-09) 1988年2月9日(36歳)
身長
体重187 cm
100 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手一塁手
プロ入り2005年 高校生ドラフト1巡目
初出場2006年8月10日
年俸3600万円(2024年)[1]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


履正社高等学校

オリックス・バファローズ (2006 - )

派遣歴


アテニエンセス・デ・マナティ (2019)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

T-岡田(ティーおかだ、本名・旧登録名:岡田 貴弘〈おかだ たかひろ〉、1988年2月9日 - )は、大阪府吹田市出身のプロ野球選手外野手内野手)。左投左打。オリックス・バファローズ所属。
経歴
プロ入り前

箕面市立第四中学校卒業。小学生時代は山田西リトルウルフ、中学生時代はボーイズリーグの箕面スカイラーク(現大阪箕面ボーイズ)に所属。練習試合で若竹竜士から放った場外本塁打は飛距離140mともいわれている。3年になると、同学年の平田良介とともに進路が注目された。

高校は自宅から通えるという理由で履正社高等学校に進学。1年夏から4番を打ち、打線の中軸として活躍する。1年時の秋季大阪大会では、近大附高校鶴直人からバックスクリーン弾を放った。2年夏の大阪大会では、2試合にまたがり5打席連続敬遠されるなど警戒されながら5試合で5本塁打を放った。その後、秋季近畿大会で8強入りしたが第77回選抜高等学校野球大会には選出されなかった。3年夏は平田良介、辻内崇伸中田翔らを擁する大阪桐蔭高校と大阪大会準決勝で対戦し、中田翔から9回表にバックスクリーンへの3点本塁打を放ったものの敗れた。

甲子園出場こそなかったもの、高校通算55本塁打を記録し、55という数字やヘッドスピードが約150km/hに達するという豪快なスイング、恵まれた体格から、松井秀喜愛称であるゴジラにちなんだ「浪速のゴジラ」とマスコミから呼ばれるようになった。また、前述の平田、辻内、鶴と併せて「浪速の四天王」とも呼ばれた[2]。なお、この4人は全員1巡目指名で高卒プロ入りしている。

2005年高校生ドラフト会議で、辻内崇伸の交渉権を抽選で逃したオリックス・バファローズから1巡目指名を受け入団。背番号は、本人の要望もあって55番をそれまで着けていたユウキから譲り受けた(ユウキは22番に変更)。
オリックス時代

2006年はシーズン後半に一軍昇格し、プロ初安打を記録。ウエスタン・リーグでは外野手登録ながら主に一塁手としてリーグ戦全88試合中喜田剛と並ぶリーグ2位の82試合に出場し、フレッシュオールスターゲームでは本塁打を放った。二軍でのシーズン成績は打率.245、5本塁打、チーム3位の27打点、共にリーグ2位の73安打と4三塁打を記録するなど高卒新人野手としては優秀な成績を残した一方でリーグワーストの75三振、一塁手としては2位と倍以上のリーグ最多11失策を記録するなど粗さも目立った。

2007年清水隆行を参考にした一本足打法から確実性アップのためすり足打法にフォーム改造した。オープン戦では本塁打を放つなど好成績を収めるも開幕は二軍スタート。シーズン序盤は極度の不振に陥り、一時はスタメンを外れることもあったが夏場以降復調し、北京プレオリンピック野球日本代表に招集され、主軸として日本の優勝に貢献した。帰国後も好調を維持したが、二軍最終戦の試合後、練習中にボールを踏んで左足首を故障、そのままシーズンを終えた。最終的には二軍で68試合に出場して8二塁打、3三塁打、4本塁打を記録し、打率も前年よりわずかに上がったが末永真史と並んで2年連続リーグワーストの69三振を記録した。守備面では外野手として1失策、一塁手としては無失策と成長が見られた。シーズン後のフェニックスリーグでは、故障が完治していない状態にもかかわらずチームトップ、リーグでも2位タイとなる4本塁打を記録。その後の秋季キャンプでもSKワイバーンズとの練習試合で本塁打を放つなど、シーズン終盤の好調をそのまま持ち込みアピールを続けた。

2008年1月にイチローと合同自主トレを行った際、面識はなかったもののイチローはすぐに岡田が将来の4番候補であることを見抜き、ロベルト・ペタジーニのようであると評した[3]。同年は前年に引き続き一軍での出場機会はなく、二軍でチーム最多、リーグ2位の83試合に出場しリーグ最多の19二塁打(新井良太と同数)、同3位の32四球を選んだ一方で、3年連続となるリーグワーストの71三振を記録し、打率も.216にとどまった。守備でも一塁手としてリーグ最多の5失策、外野手としても36試合で森山周(外野手としての出場は5試合)に次いで低い守備率を記録した。また、ボールの見えづらさからオフシーズンにレーシック手術を受け、視力回復をしている。

2009年は内野手登録となった。アレックス・カブレラの怪我によりセ・パ交流戦で一軍に抜擢され、3年ぶりに一軍出場を果たすも結果を残せず降格となった。しかし、2度目の昇格となる8月14日の福岡ソフトバンクホークス戦でのプロ入り初本塁打を切っ掛けに最終的に7本塁打を放ち、以降最終戦まで一軍に帯同。打率こそ2割を大きく下回ったが、ヒットの3分の1が本塁打、チームトップクラスの飛距離を見せた。二軍では打率.295、21本塁打、59打点の成績で、ウエスタン・リーグ本塁打王と打点王の2冠に輝き、最高長打率も獲得。三振はワースト2位の71個、失策は一塁手ワーストの7個だった。

同年シーズン終了後、新監督に就任した岡田彰布が、自身と同姓であり「ややこしい」との理由から、貴弘の登録名変更を発案。10月18日より、球団公式サイト・携帯サイトでファンからアンケートをとり、約7000通の応募の中から「T-岡田」に決定し、11月29日のファン感謝デーにて発表された[4]。登録名の「T」は名前の「Takahiro」の頭文字や、ティラノサウルスの学名の略表記「T.rex」に由来する[5][6]

2010年は、キャンプでは「労働基準法違反」[7]と語るほど昼夜問わず徹底的に振り込み、オープン戦では打率.324を記録し、6番・一塁手として開幕スタメンに名を連ねる。春先は、3月31日の日本ハム戦で9回に逆転3点本塁打を放つもなかなか打率が伸びず、5月中旬に打撃コーチの正田耕三のアドバイスで右足をステップしないノーステップ打法に変更した[8]。5月12日の東京ヤクルトスワローズ戦で左足首を負傷し、翌日に登録抹消となったが、5月23日の読売ジャイアンツ戦で復帰し、プロ入り初の4番スタメン出場。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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