Springer_Verlag
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この項目では、ユリウス・シュプリンガーが創業した学術書の出版社について説明しています。アクセル・シュプリンガーが起業した新聞社については「アクセル・シュプリンガー・AG」をご覧ください。

Springer Science+Business Media
設立日1842年
設立者ユリウス・シュプリンガー
ドイツ
本社所在地ベルリンハイデルベルク
トピック科学技術工学など)、医学商業交通建築[1]
売上高

8億6,600万? (2010年)[1][2][3]
8億5,900万? (2009年)[1][2]
従業員数5,500人以上[1]
公式サイト ⇒www.springer.com
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シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア(: Springer Science+Business Media, Springer)は、科学(Science)、技術(Technology、工学など)、医学(Medicine)、すなわちSTM関連の書籍、電子書籍査読済みジャーナルを出版するグローバル企業である。シュプリンガーはまた、SpringerLink(「シュプリンガー・リンク」)[4]、"SpringerProtocols"(「シュプリンガー・プロトコル(英語版)」)[5]、SpringerImages(「シュプリンガー・イメージ」)[6]、SpringerMaterials(「シュプリンガー・マテリアル」)[7]などいくつかの科学データベース・サービスのホスティングも行っている。

出版物には、参考図書(Reference works、レ(リ)ファレンス・ワークス)、教科書モノグラフ(Monograph)、プロシーディングス(英語版)(Proceedings)、叢書など多数が含まれる。また、シュプリンガー・リンクには45,000以上のタイトルが自然科学など13の主題・テーマで集められており[1]、それらは電子書籍として利用可能である[4]。シュプリンガーはSTM分野の書籍に関しては世界最大の出版規模を持ち、ジャーナルでは世界第2位である[8](第1位はエルゼビア)。

多数のインプリントや、20ヶ国に約55の発行所(パブリッシング・ハウス)、5,000人以上の従業員を抱え、毎年約2,000のジャーナル、7,000以上の新書(これにはSTM分野だけではなく、B2B分野のものも含まれる)を発刊している[1]。シュプリンガーはベルリンハイデルベルクドルトレヒトニューヨークに主要オフィスを構える。近年成長著しいアジア市場のために、アジア地域本部を香港に置いており、2005年8月からは北京に代表部を設置している[9]

2015年5月、シュプリンガー・サイエンス+ビジネスメディアとマクミラン・サイエンス・アンド・エデュケーションの大半の事業の合併が、欧州連合や米国司法省などの主要な公正競争監視機関により承認された。新会社の名称は「シュプリンガー・ネイチャー(Springer Nature)」。
目次

1 歴史

1.1 コーポレートアイデンティティ


2 電子書籍

3 オープンアクセス

4 インプリント

5 ジャーナル

6 出版物

7 表彰

8 その他

9 関連項目

10 脚注

10.1 注釈

10.2 出典


11 外部リンク

11.1 社史


歴史

1842年ユダヤ人イジドール・シュプリンガー(Isidor Springer)の息子[10]ユリウス・シュプリンガープロイセン王国ベルリンにSpringer-Verlag(シュプリンガー・フェアラーク、すなわちシュプリンガー出版社)を創業した[11]

のちに、ユリウスの息子、フェルディナント・シュプリンガー・ゼニオール(ドイツ語版)(Ferdinand Springer senior, 1846-1906)は、弟フリッツ・シュプリンガー(Fritz Springer, 1850-1944)と共に父ユリウスよりシュプリンガー・フェアラークを引き継いだ[10]。ユリウスの息子たちの時代に同社は理工学系書籍を主として取り扱うようになり、学術雑誌の発刊にも漕ぎ着けている[10]

フェルディナント・ゼニオールの死後、フリッツはフェルディナント・ゼニオールの息子、フェルディナント・シュプリンガー・ユニオール(ドイツ語版)(Ferdinand Springer junior, 1881-1965)と自身の息子、ユリウス・シュプリンガー・ユニオール(Julius Springer junior)に社を引き継いだ[12]。シュプリンガー・フェアラーク第3代社長となったフェルディナント・ユニオールとユリウス・ユニオールは、不景気とヴァイマル共和政時代の社会不安が漂う中、同社をドイツ有数の理工学系出版社に成長させた[10]

1920年代には、ツァイトシュリフト・フュア・フィジークにおいて、ハイゼンベルクパウリボルンなどの物理学者による量子力学の革新的な論文が多数掲載された。

しかし、ナチスの台頭以後、状況が一変した。ナチスの反ユダヤ主義政策により、ユダヤ人研究者の書籍、ジャーナルに発禁処分が下された。また?Sachsische Arzteblatt“(Saxonian Medical Journal、「ザクセン医学雑誌」)などによる、反ユダヤ主義に基づいた「反シュプリンガー批判」がドイツ医学雑誌界に巻き起こった[10]。ナチス党員でもある出版社社長ヴィルヘルム・バウアー(Wilhelm Baur, 1905?1945)は「シュプリンガーのアーリア化」を主張した(強制的同一化[10]。シュプリンガーは、ナチスが考える、アーリア人種が学ぶべき分野の書籍のみ出版が許された。また1935年9月15日のライヒ市民法(ドイツ語版)(ニュルンベルク法の1つ)により、3人の祖父母がユダヤ人であったユリウス・ユニオールは「2級市民」[注釈 1]、「法的な意味でのユダヤ人」とされ公民権を強制的に停止させられた[13]。一方フェルディナント・ユニオールは同法によると「半ユダヤ人」と見なされた[13][10]ライヒ文化院[注釈 2]傘下のライヒ文学院(ドイツ語版)(Reichsschrifttumskammer, RSK)はこの法に基づき、フェルディナント・ユニオールに、直ちにユリウス・ユリオールを同社から追放するよう要求した[13]。同年10月10日、フェルディナント・ユニオールは、やむなく、「ユリウスの同社からの離脱を承認」した[13]1938年以後、ユリウス・ユニオールはしばらくの間ザクセンハウゼン強制収容所に収監された[10]


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