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SSラツィオ
原語表記Societa Sportiva Lazio S.p.A.
愛称
Biancocelesti, Biancazzurri (白と青)Aquile, Aquilotti (鷲、鷲のひなどり)
創設年1900年
所属リーグセリエA
所属ディビジョン1部(2021-22)
ホームタウンローマ
ホームスタジアムスタディオ・オリンピコ
収容人数72,698
代表者 クラウディオ・ロティート
監督 マウリツィオ・サッリ
公式サイト ⇒公式サイト
ホームカラーアウェイカラーサードカラー
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ
ソチエタ・スポルティーヴァ・ラツィオ(Societa Sportiva Lazio)は、イタリア・ローマ(ラツィオ州)をホームタウンとするプロサッカークラブ。目次 愛称はBiancocelestiで、チームカラーは白と青(水色)で、これは元々陸上競技をはじめとする複合スポーツクラブとして誕生した経緯から、スポーツの象徴的な存在であるオリンピックに因んで、オリンピック発祥の地であるギリシャ国旗に使用される2色を採用したことに由来する[1][2]。通称はラツィオ。サポーターはラツィアーレと呼ばれる。 ローマとは同じスタディオ・オリンピコを本拠地とするが、ローマは主としてローマ市内での人気が高いのに対し、ラツィオは広くラツィオ州に支持者を持つ。 この2チームのダービーマッチはローマ・ダービーとして盛り上がりをみせ、熱狂的なサポーター同士の暴力沙汰や器物損壊などの騒動も少なくない。 イタリア国内では初めて株式を上場したサッカークラブでもある。 1900年に設立。前身は、イタリア人将校ルイジ・ビビアレッリが創立した「ソシエタ・ポデスティカ・ラツィオ(Societa Podistica Lazio=ラツィオ競歩協会)」である。 1940-1941シーズンのラツィオ 1958年にコッパ・イタリアを獲得。これがクラブにとっての初タイトルであった。1973-74に初めてスクデットを獲得して以降は低迷し、セリエBとセリエAを行き来するようになった。また、成績面においてもライバルのローマに大きく水を開けられる状態であった。 ユニフォームにスクデットが付けられた1974-75シーズン こうした状況を打破するため、1992年に大手食品会社チリオ
1 概要
2 歴史
2.1 セルジョ・クラニョッティ会長時代
2.2 クラウディオ・ロティート会長時代
3 タイトル
3.1 国内タイトル
3.2 国際タイトル
4 過去の成績
5 欧州の成績
6 現所属メンバー
6.1 ローン移籍選手
7 歴代監督
8 歴代所属選手
9 脚注
10 外部リンク
概要
歴史 リベルタ広場にある創立記念プレート
セルジョ・クラニョッティ会長時代
ディノ・ゾフが監督を務めて以降は上位に顔を出すようにはなったが、当時はクラニョッティ自身が多忙だったため、1994年には監督だったゾフにフロントを任せて、ゾフの後任にズデネク・ゼーマンを招聘する。
1997年にスヴェン・ゴラン・エリクソンが監督に就任して以降は多くのタイトルを獲得することになる。
1998年にイタリアのクラブでは初めて株式を上場し、これによって潤沢な資金を得たクラブは、シニシャ・ミハイロヴィチ、イバン・デ・ラ・ペーニャ、セルジオ・コンセイソン、デヤン・スタンコヴィッチ、クリスチャン・ヴィエリ、マルセロ・サラスといったスター選手を次々に獲得すると、戦力が大きくアップしたチームは優勝争いに加わるようになる。その結果、1999年には最初で最後のUEFAカップウィナーズカップ優勝、次いでUEFAスーパーカップ優勝、2000年には26年ぶりのリーグ優勝とコッパ・イタリア制覇とクラブ史上初の2冠を達成するなど大きな成功を手にした。
しかし、サッカーバブル崩壊と共に、株式上場が裏目に出たことやチリオの業績悪化の影響を受けて多くの負債を抱えるようになった。これにより、多くのスター選手が移籍市場に売り出され、ついに、2002年には生え抜きでチームのキャプテンでもあったアレッサンドロ・ネスタをACミランに売り出さなければならないほどにまでクラブの財政は悪化した。
その後、クラニョッティ一族は2003年にクラブ経営から退き、一族の顧問弁護士であったウーゴ・ロンゴが管財人として会長職に就任した。 クラニョッティによるラツィオの経営が悪化すると、2004年に清掃・警備会社等を経営する実業家クラウディオ・ロティートが買収に乗り出しクラブを買収。会長に就任する。 極度の財政難のため緊縮財政を実施しており、補強はきわめて限られた財政力で行なわれている。緊縮財政を反映して選手の給与額を制限し、大型補強もほとんど行なわないため、ラツィアーレからの反感を買うことも多いが、ラツィオが多額の負債を抱えながらも生き残っているのはロティートの辣腕に負うところが大きい。2005年には、1億4000万ユーロ(約195億円)と言われる負債の23年の分割払いで税務当局と合意するなど、優れた手腕を発揮した。 ロティートはルチアーノ・モッジとの親交が深かったが、その深さが仇となり、カルチョ・スキャンダルへの関与が疑われた。こうして2006年7月14日、セリエAの八百長問題に関連して「セリエB降格および勝ち点-7点からのリーグ戦開始」との判決が下される。7月25日、控訴審判決においてセリエA残留、2006-07シーズンの勝ち点-11でのシーズン開始と2005-06シーズンの勝ち点-30の判決が下された。後の判決によって、2006-07シーズンのペナルティが勝ち点-3に削減された。この事件についてはカルチョ・スキャンダルの項を参考のこと。 2006-07シーズン、クラブには重いペナルティが課されたが、デリオ・ロッシ監督の下、デルビー・ロマーノで歴史的大勝(ラツィオが3点差以上のスコアをつけて勝利したのは初めて)をするなどして最終的にシーズン3位でUEFAチャンピオンズリーグの出場権を獲得するなど、再生は堅実に進められた。2008-09シーズンはセリエAでは10位に終わるものの、コッパ・イタリアを制し、続くイタリア・スーパーカップも獲得した。 2009-10シーズン、移籍希望を公言したゴラン・パンデフにロティートが激怒し、同様の訴えをしたクリスティアン・レデスマなど主力数選手などと共に戦力外扱いされる出来事があり、その影響などから成績不振が続いた。 2012-13シーズン、リーグ戦では7位に終わるも、コッパ・イタリアでは決勝でASローマとのローマ・ダービーを制し、4年ぶり6度目の優勝を果たした。 2015-16シーズンはヴェスレイ・フートや、数年後にFCバルセロナやマンチェスターユナイテッドなどから注目を集めることになる[3]セルゲイ・ミリンコヴィッチ=サヴィッチらを獲得。
クラウディオ・ロティート会長時代