SMAP
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(なかい まさひろ) (1972-08-18) 1972年8月18日(51歳)A型神奈川県    青[7]    ピンク[8]1988年 - 2016年リーダー[9]のんびりなかい[10]
木村拓哉
(きむら たくや) (1972-11-13) 1972年11月13日(51歳)O型東京都    赤[7]    赤[8]SMILE-UP.[11]
稲垣吾郎
(いながき ごろう) (1973-12-08) 1973年12月8日(50歳)O型東京都    ピンク[7]    青[8]CULEN[12]
草g剛
(くさなぎ つよし) (1974-07-09) 1974年7月9日(49歳)A型埼玉県    黄[7]    黄[8]CULEN[13]
香取慎吾
(かとり しんご) (1977-01-31) 1977年1月31日(47歳)A型神奈川県    緑[7]    緑[8]2008年よりコンサートの演出を担当[14]CULEN[15]

途中脱退名前生年月日血液型出身地メンバーカラー活動期間備考
森且行
(もり かつゆき) (1974-02-19) 1974年2月19日(50歳)B型東京都    白[7]1988年 - 1996年脱退後にオートレーサーに転身[16]

経歴

1987年、光GENJIのバックで踊るジャニーズJr.内グループ・スケートボーイズが結成され[17]、1988年4月にスケートボーイズ12名の中から中居正広木村拓哉稲垣吾郎森且行草g剛香取慎吾の6人が選抜されSMAPが結成された[18]ジャニーズ事務所は日系二世の創業者・ジャニー喜多川の意向で舞台芸術の方面に力を入れており、非日常な舞台を演出・提供するアイドルタレントが多かった。光GENJIはこのアイドル主義の頂点を極め、この年の第30回日本レコード大賞を受賞する。SMAPもこの路線を受け継ぎ、華やかな衣装でステージに立った[19]

しかしこの頃、1980年頃から始まったアイドルの大衆化が極限まで推し進められ、自我を抑制して与えられた役割を演ずる、光GENJI的な「仕立てられたアイドル」は限界を迎えていた。光GENJIも1990年代に入ってから人気が降下し始める。SMAPは結成後3年を経て、1991年9月9日、シングル『Can't Stop!! -LOVING-』でメジャーデビューを果たすが、オリコン週間チャートでは2位止まりで、セールスはデビューシングルとしては事務所始まって以来最低の15万枚で、地方でのコンサートでは客もまばらだった。アイドル業界全体が下火となる中で音楽番組も次々と打ち切られ、事務所もSMAPの売り出し方について確たる方針を定められないでいた[20]

この状況を打開したのが、当時事務所の事務職員だった飯島三智である。飯島はSMAPのマネージャーに志願すると、それまで事務所が距離をとっていたバラエティ路線にSMAPを積極的に売り込み、1992年に放送開始の『夢がMORI MORI』では本格的なコントに挑戦した。1980年代までは音楽番組とコント番組は親和性が非常に高く、ほとんどのコント番組にアイドルや歌手の歌唱コーナーが設けられていたり、あるいは逆にコントコーナーが存在していた音楽番組も多く、ジャニーズではたのきんトリオの『たのきん全力投球!』や、他の事務所では新御三家郷ひろみ西城秀樹野口五郎)の『カックラキン大放送!!』などの成功例があった。そのため、アイドルのコント番組への出演自体は珍しいことではなかったが、SMAPはアイドルであることを言い訳にせず、本気で本職のお笑い芸人顔負けの「笑われる」対象に徹した。奇しくもお笑い界からは「踊れる芸人」として吉本印天然素材がSMAPデビューと前後して結成されるなど、漫才ブームの余波でお笑い芸人がアイドル的人気を得る状況が起きていた[21]。一方で、フジテレビの元プロデューサーで、ワタナベエンターテイメント会長の吉田正樹は自身のTwitterで「SMAPを初めてバラティーで推薦されたのは、今はない青山劇場の楽屋。ジャニーさんに呼ばれて見た『聖闘士星矢』。そこにはメリーさんと泉ピン子さんがいて彼らの未来を話された。1991年8月のことだ。だからメリーさんの熱い気持ちからフジテレビのプロジェクトが始まったことは間違いない。」と綴っている[22]。ちなみに、『SMAP GO!GO!』や記事[23] において、フジテレビのプロデューサーであった荒井昭博によると、『夢がMORI MORI』にSMAPがレギュラー出演するようになったのは、ジャニーに頼まれたからだと明言している。

このバラエティ路線は、作られたスター性を犠牲にしてカジュアルな身近さを演出する意味合いがあり、ジャニー喜多川が当初目指していたショーアップされたスター性からはかけ離れた方針であった。しかし、ジャニーはこれを容認し、自らもテレビ局のスタッフに積極的にメンバーを売り込んでいた。ジャニーは1960年頃から事務所のプロデューサーとして活躍する中で、日本においては社会の中における芸能人の位置づけが低いことに憤りを抱えていた。対して米国では「劇場が芸能人に出演を頼む」というほど芸能人の社会的地位が高く、また「舞台を彩る存在は、俳優も歌手も芸人も、等しく芸術家」である。ジャニーにとってはアイドルがお笑いをやることへの抵抗がなく、逆に歌って踊れて笑いもできるエンターテーナーこそが本物であるというエンターテインメント観があった[24]。総合エンターテーナーの路線を追求することにより、従来のアイドルのような夢の世界の住人ではなく、日常を生きる、いわば「SMAPという職業」につく普通の人物としての側面を持つようになる。そしてSMAPのファンは、SMAPのメンバーの歩みや変遷を楽しみ、共に生きるという関わり方を送るようになる。このようなアイドルとファンの接し方は、2000年代以降の女性アイドルグループの主流に近いといえる[25]

SMAPの音楽性としては、クラブカルチャーが特徴として挙げられる。1970年代からディスコが流行し、ジャニーズ事務所では郷ひろみや田原俊彦が積極的に取り入れていた。しかしこれは1984年の風営法改正によって営業に支障が生じるようになる。法改正に対応して、より小規模で、よりカジュアルなクラブへと衣替え、音楽もより自由で、ディスコ時代の「お約束」から解き放たれたクラブミュージック(ハウスやヒップホップなど)が新たに生まれた。SMAPの芸風もまた、ディスコ音楽を突き詰めた田原の世界観とは対照的な、よりリアルでカジュアル(非日常な舞台からの脱却)なクラブ文化と馬があった。そしてSMAPの音楽は、クラブミュージックのカジュアルな文化とともに歩んだのである[26][注釈 1]

また、具体的には渋谷系の音楽との親和性も強い。1990年代半ばには、シングル「がんばりましょう」(1994年)を筆頭に、当時流行したフリーソウルの曲も積極的に取り入れた。この頃のアルバムには海外ミュージシャンを積極的に迎え入れており、その中にはレア・グルーヴブームの中で再評価されたものもいる[27]

1990年代はアイドルにとって厳しい時代だったといわれるが、SMAPはドラマやバラエティに積極的に進出し、確固たる地位を築き始める。1996年からは、フジテレビ系冠番組の『SMAP×SMAP』が放送を開始。コント等のバラエティ企画と音楽ショーの二部構成のフォーマットにすることにより、身近な親しみやすさとスター性とをあわせもつ存在であることがわかりやすく示された[27]。こうしたSMAPの「音楽とお笑い」の両立路線は、かつて戦後の昭和期において音楽テレビ映画など様々な分野で活躍し、オールラウンド型の音楽グループとして国民的な人気を獲得していたクレージーキャッツ植木等)、ザ・スパイダース堺正章)、ザ・ドリフターズの路線を受け継ぐものであったとの指摘もある[28][29]


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